第14回 どんなふうに〝これから〟を生きていく?
川口好美(文芸批評家)

本稿の写真は、写真家の金川晋吾氏が本文テーマをイメージして選定しています
「再臨運動」をやめたワケ
みなさん、こんにちは。この連載は今回でおしまいです。さみしいですが、さっそく「再臨運動」の話に移りましょう。
〝終末〟の空気に包まれる中、日本でも盛り上がった「再臨運動」。内村さんはリーダー的存在として日本各地に出向き、自分の考えを語りました。ですが、1919(大正8)年のなかば頃、運動から退きました。内村さんの「再臨運動」は1年半ほどの期間で幕を閉じたのです。なぜだったのでしょう。
理由はいくつか考えられます。若い頃から日本のあり方を厳しく批判してきた内村さんは、国から要注意人物としてマークされていました。たぶん、内村さんもそのことを知っていたはずです。そのため、目立つ活動を続けていればいつか逮捕されるかもしれないと、警戒して当然だったのです。朝鮮では、日本政府の機関である総督府が、植民地支配からの脱却を訴えていたキリスト教徒たちを、激しく弾圧(武力で無理やり抑えつけること)したらしい。そのような情報も内村さんの耳に届いていました。※1 弾圧の刃が日本国内のキリスト教徒に、そして内村さん自身に向けられる可能性が、じゅうぶんあったのです。
さらに、その頃の日記によれば、内村さんを訪ねてきて、〝再臨のキリストは私の恋人だ〟と主張し、自分と自分の恋人を研究してほしいと頼んだ人がいたそうです。※2「再臨運動」のメッセージが、一部の人に極端な影響を与えているのを知って、内村さんは残念に感じたはずです。
でも、こうした理由以上に大事な、シンプルな理由があったのではないでしょうか。それは、『聖書』に戻りたくなった、ということです。今の自分は『聖書』を、これまでよりも生き生きと味わえるようになったはずだ。そんな予感を抱いて、内村さんは「再臨運動」から離れていったのだと、わたしは考えます。
言い換えれば、内村さんは「再臨運動」から『聖書』をより深く読むヒントを得たのです。ですが、このことから、〝実際の行動よりも研究に重きを置いた〟と決めつけるのも、違う気がします。これ以降、内村さんがあまり社会と関わりを持たなかったのは事実です。でも、考えてみてください。非戦論や足尾銅山鉱毒事件で活発に行動していた時期と、「再臨運動」の時期には、およそ15年のブランクがありました。内村さんは1930年に、69歳で亡くなりました。もしも、もっと長生きして、第二次世界大戦の日本の敗戦を目撃していたら、どうだったでしょうか。この国は、どう立ち直ればよいのか。わたしたちはこの結果とどう向き合い、反省すればよいのか。外国の人々に与えた苦しみをどう償うべきなのか。こうした事柄について、聴衆の前で、喜怒哀楽をあらわにしながら語っていたかもしれません。
研究の方が大事。行動の方が大事。そのように決めてしまわず、その時、その場所で、自分がほんとうに必要だと感じたことにまっすぐ集中する。内村さんのことばの輝きの根っこに、このような生き方があったと思います。
