第3回 絶望したときどうするの?(後編)
川口好美(文芸批評家)
どんな「なぐさめ」が必要?
みなさん、こんにちは。今回は内村鑑三がどんなふうに〝絶望〟に立ち向かったのか、一緒に考えていきたいと思います。
ヒントになりそうなことばを先に見ておきましょう。内村さんは「なぐさめ」を、二つに分けているんです。
①は、「なぐさめ」=「凪ぐ」という日本語のイメージでとらえる見方です。「凪」とは、風が吹いていない、おだやかな水面の様子を言い表したことばです。「凪ぐ」は「和ぐ」ともつながっていますね。心がなごやかに落ち着いている感じを想像してください。
②は、英語のイメージでとらえる見方です。日本語の「なぐさめ」を英語に訳すと、comfort。動詞としてcomfortを使う場合には、言葉や行動によって誰かの力になる、誰かを苦しみから解放する、という積極的な印象が強くなるのです。ことばのもとをたどれば、comfortには、力(fort)と共にある(com)、という感覚がこめられているのですね。ここが、「凪」のようなおだやかな心の状態を目指そうとする①の「なぐさめ」との違いだと思います。
内村さんは①の例として、自然や音楽がわたしたちに与える「なぐさめ」を挙げています。ですが、内村さんは②の「なぐさめ」の方がより大切だと考えて、こんなふうに言うのです。自然や音楽が作り出す心の「凪」は、その場かぎりのものではないですか? 〝絶望〟してしまうのは、苦しみに立ち向かうための力が自分には足りないと感じるからでしょう。そういう場合に必要なのは、力と共にあると実感できる、②の「なぐさめ」なんですよ、って。※1
みなさんは、この区別を聞いてどう感じますか? そうかもしれないな、とわたしは思います。前回、わたしの〝絶望〟について話しましたね。わたしも音楽に「なぐさめ」られたこともありましたし、優しい言葉で「なぐさめ」てくれた人もいました。ありがたいことですが、でも、そうした「なぐさめ」によってかえって無力感が大きくなることもありました。
内村さんから深い影響を受けた作家に正宗白鳥という人がいて、つぎのようなことばを残しています。内村さんはキリスト教を信じ、それを本に書いたけれど、ほんとうに「なぐさめ」られていたのだろうかと疑っているんです。
「それらの文章は感傷的の述懐であって、作者自身それによって徹底的に慰められたり、安心を得たりしていたのではなかったのではないか。慰められたつもり、安心を得たつもりであっただけのように、私には思われる。我執の人、内村鑑三は最後までそうではなかったか」※2
「我執」というのは、自分へのこだわり、ということですね。「我執」があったから、内村さんは「なぐさめ」を得られなかっただろう、と考えているのです。たしかに、内村さんはいつもこのこだわりを大切にしていました。でも、どうでしょうか。正宗さんは①の「なぐさめ」だけを考えて、内村さんが大切にしていた②の「なぐさめ」を見落としていたのではないかと、わたしは思います。
自分へのこだわりを捨てて、自分のことなんてそれほど大事ではないと思えれば、たしかに「凪」の状態になりやすそうです。つまり①の「なぐさめ」ですね。でも、それだとかえって、②の「なぐさめ」は得られなくなってしまうのではないでしょうか。なぜなら、力と共にある、力に支えられている、と感じられるためには、その力を受けとめる自分というものが、まずは必要だからです。
日本には①の「なぐさめ」を得ようとする文化の伝統がありました。たとえば、鴨長明が書いた『方丈記』をはじめとして、〝随筆〟と呼ばれるジャンルの文章には①の「なぐさめ」にかんする知恵が含まれていますね。でも、②はほとんどなかったのです。内村さんはそれを求めて、イチから自力で考えなければなりませんでした。むずかしい課題ですから、どうしても迷ったり悩んだりすることになりますよね。正宗さんはそんな内村さんの様子を見て、全然「なぐさめ」られていないと感じたのかもしれません。
そういう内村さんがたどりついたのが、〝物語〟を語る、という方法でした。力と共にある人間の〝物語〟です。それは、自分自身の〝物語〟であることもあれば、『聖書』の登場人物に託された〝物語〟であることもありました。

「なぐさめ」の物語
内村さんが書いた『余は如何にして基督信徒となりし乎』という本があります。題名のとおり、内村さんがどんなふうにキリスト教を信じてきたかが、いろいろなエピソードをまじえて語られています。
内村さんは北海道の札幌農学校で学生時代を過ごしました。当時の札幌はまだ人口も建物も少ない場所でした。そのような土地で仲間と生活しながらキリスト教を学び、教会を手作りしたのです。そこでの日々はまさに〝青春〟という感じで、読んでいてワクワクします。※3
20歳で学校を卒業した内村さんは、北海道に残り、学校で研究した漁業の知識を活かして働きはじめました。でも、しばらくして辞めてしまいます。体調不良が理由でしたが、もっとキリスト教にかかわる仕事がしたいという焦りもあったのかもしれません。そして、1884年11月に、突然アメリカに旅立ちます。23歳の時でした。
内村さんはその年の3月に浅田タケさんと結婚し、10月には早くも別居しています。内村さんの生涯を研究した人の多くが、結婚生活がうまくいかず、自分自身に〝絶望〟したことが、この突然の行動の理由だったと考えています。
アメリカへの旅立ちは、「なぐさめ」を求める〝物語〟がはじまる、大事なポイントです。でもこの決断について、内村さんは具体的には書いていません。ただこんなふうに言っているだけです。
ある時、自分の心のなかに、キリスト教の活動や科学実験によっては満たされない、空虚な場所があることに気づいた(空虚というのは、中身がなく、ぼんやりしていてむなしい、という意味です)。この空虚を埋めなければと思い、じっとしていられずアメリカへ出発した、って。遠い世界に向けて旅立つ。知らない場所で一人で生きてみる。それしか思い浮かばなかった、ということですね。※4
アメリカ滞在で、内村さんにとって重要な出来事だったとわたしが思うのは、キリストとの出会いです。もちろん、キリスト(もともとの名前はイエス)ははるか昔に死んでいますから、直接会ったわけではありません。キリストの〝物語〟である『新約聖書』を読んで、はじめて心から共感したという意味です。神の子であるはずなのに、バカにされ、仲間にも見捨てられ、犯罪者として十字架に縛り付けられて、悲痛な叫びを上げながら孤独に死んだ人。そんなキリストの〝絶望〟に心を揺さぶられて、自分の〝絶望〟を重ね合わせたのでしょう。
これは大きな変化でした。16歳で札幌農学校に入学した時からキリスト教を信仰してきたのですが、この時までの内村さんにとって、キリスト教は仲間と切磋琢磨しながらより良い道徳的な人間になるための道具だったのです。でも、アメリカで、キリストの〝絶望〟が内村さんにとっていちばん大切な問題になりました。それは、集団のなかの一人としてではなく、〈個〉としてキリストその人に向き合うということです。自分も〝絶望〟していたからこそ、キリスト教の新しい面が見えてきたのですね。
当時アメリカには、夢中でキリスト教を信仰する人たちがいました。この熱狂的な流行は「リバイバル」と呼ばれています。内村さんはそれをさめた目で見ていました。集団で興奮し、現実の辛さを忘れることは、ほんとうの「なぐさめ」ではないと感じたのです。さらに内村さんは、障がいのある子どもたちが生活する施設で働きはじめます。ですが、本の中で、その行動を自分勝手だったと批判しています。心の空虚から逃れたくて人助けをしていた、というのです。