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連載

保守思想入門

第3回 フランス革命に対する二つの態度~バークとカント

浜崎洋介(文芸批評家)

Ⅰ 遅れてきた批判者——フランス革命とエドマンド・バーク

 前回の連載では、改革主義(理性主義)に対して、つねに〝後手を引くように〟宿命づけられている保守思想(愛着と先入見の擁護)について、その概要を見ておきました。が、まさに、それを身をもって体現していたのが、後に「保守主義の開祖」(ラッセル・カーク『保守主義の精神』会田弘継訳)と呼ばれることになるエドマンド・バークです。
 つまり、まず何かしらの理由で社会の調和が崩され、そこに社会変革の理念を掲げる人間が登場し、それを見てさらなる混乱がもたらされることを懸念して保守派が登場してくる。その流れと必然を示しつつ、さらに、その思想的根拠を示した人間、それが『フランス革命についての省察』を書いたイギリスの政治家=エドマンド・バークだったということです。
 では、バークが批判したフランス革命とは、どのような「不調和」によって引き起こされた事件だったのでしょうか? 革命に至るまでの流れを簡単に見ておきましょう。

 ここは重要な点ですが、まず、フランス革命は、横暴な専制君主に対して、人権意識に目覚めた市民(ブルジョワ)が自覚的に引き起こした革命などではありません。それは、社会的不均衡の隙間から、あるとき偶然産み落とされたような突発的事件でした。
 なるほど、たしかにフランスのブルボン王朝は、王権神授説に基づいた絶対主義を唱えていました。が、それは飽くまで国王側の論理であって、現実の国王は、むしろ多種多様な職能集団、すなわち「社団」と呼ばれる中間団体(貴族団体・教会・都市や村などの自治会・職人ギルド)によって自由を制限された存在でした。社団に様々な特権を付与する国王は、その行為を通じて王権の威信を社会の隅々にまで行き渡らせるが、それゆえに、中間団体の特権に対しては安易に手を入れることができず、基本的に彼らの意向を無視することもできない……、これがアンシャン・レジーム(旧体制)と言われる体制の実態でした。
 しかし、緊迫する国際情勢に直面して、このアンシャン・レジームは、次第に王権の側から改革されていくことになります。近代国家の体裁を整えるには、官僚制と常備軍の整備が不可欠となりますが、それを用意するには、分権化された中間団体を解体し、その行政権力を国王に集中すること、つまり、中央集権化することが必須だったのです(この事情は、たとえば、極東に手を伸ばしてきた西欧列強諸国に対して、日本が、分権型の幕藩体制を解体し、中央集権型の国家を作り直さなければならなかったのと事情は同じです)。
 が、現実はどうだったのか? 対外戦争(ルイ十五世によるイギリスとの七年戦争など)に敗れ威信をなくしてしまった国王は、ろくに中央集権体制の基盤も整えられないまま、その敗戦のツケとして背負いこんだ莫大な財政赤字への対応を迫られることになるのです。


 そして、そこに登場してくるのが、あの浪費癖で知られるマリー・アントワネットと、優柔不断で知られるルイ十六世でした。しかも、アメリカ独立戦争に対する支援もあって、当時のフランス財政は、かつてないほどの危機的な状況にありました。が、それゆえに国王は、自由主義的志向を持つテュルゴー、ネッケル、カロンヌ、ブリエンヌなどを財務長官として起用しながら、断続的に財政改革と中央集権化——今風に言えば、既得権の廃止=規制緩和による市場の自由化と、中央集権的税制の整備——に取り組むことになるのです。
 しかし、その財政改革の方法として、特権階級に対する課税が検討されはじめると、そこに、免税特権を廃したい国王(中央集権化)と、免税特権を手放すまいとする社団(僧侶と貴族の既得権)との軋轢(あつれき)が生まれ、次第に、その対立は激しいものになっていきました。
 果たして、そこで用意されることになったのが、1614年以来開かれてこなかった全国三部会(僧侶・貴族・平民で構成される議会)だったのです。が、この時の、この判断が、フランス革命のパンドラの箱を開けることになるとは、当時、おそらく誰一人考えていなかったはずです。以下、簡単に、革命までの経緯を述べておくことにしましょう。

 三部会は、その議論以前に、その採決方法(身分投票か個人投票か)をめぐって、第一身分(僧侶)・第二身分(貴族)と、第三身分(平民)とが対立することになります。が、そこで、第三身分を警戒した国王が会議場を閉鎖したことをきっかけとして、今度は、第三身分の代表が「国民議会」を名乗りはじめ、ヴェルサイユ宮殿内の球戯場に集結して、憲法作成を求めて座り込みを始めます。それに対して国王側は、仕方なく「国民議会」を認めるのですが(憲法制定国民会議の誕生!)、その一方で、貴族に突き上げられるかたちで議会解散のための軍をヴェルサイユに集結させ、ネッケル財務大臣の更迭を発表するのです。
 しかし、この判断が裏目に出ました。貴族への増税を主張し、平民側に立っていたネッケルの罷免は、人々の眼に、国王による「第三身分」の否定として映り、パリの民衆の怒りに火をつけてしまうのです。そして、1789年7月14日、ついにバスティーユ牢獄(政治犯収容所、武器弾薬の保管庫)の襲撃・虐殺事件が引き起こされ、それが、その後10年に及ぶ‶混乱の季節——1799年まで続くフランス革命〟の幕開けとなったのでした。

 ところで、エドマンド・バークの思想を考える上で注目すべきなのは、このフランス革命の混乱より以上に、この混乱に乗じて登場してくるイデオローグたちの存在であり、また、それらの急進主義者たちに対するバークの抵抗と、その舌鋒鋭い批判でしょう。
 バークの批判の詳細については後で見ることにしますが、まず、イギリスにおけるフランス革命に対する賛意は、革命勃発から3ヵ月半後の1979年11月4日、イギリス名誉革命記念協会の記念祝賀会の席上でなされたリチャード・プライス博士の「われわれの祖国愛についての論説」という講演に見ることができます。そのなかでプライス博士は、祖国に対する盲目的な愛着を超えた「普遍的慈愛の原理」と「合理的な行動原理」を支持しながら、それらの「原理」に基づいたイギリス国家の改革と共に、フランス国民議会に対する連帯を訴えかけていました(『祖国愛について』永井義雄訳、未来社参照)
 しかし、そんな時流に乗った言葉に、文字通り〝後手を引くように〟嚙みついたのが、エドマンド・バークでした。バークは、プライス博士の演説文に対して、イギリス名誉革命(立憲君主制の確立)における「保存と修正」の規準を示しながら、思弁によってしか確かめられないフランス革命の「理念」に対して、生活のなかに確かめられるイギリスの「経験」を対置し、さらにその「経験」を支えているもの——家庭、祖先、教会、国家——について諄々(じゅんじゅん)と説くことになるのです。ここに、近代保守思想の決定的な一歩が踏みだされました。

Ⅱ バークとカント——二つの崇高論をめぐって

 ここから早速、バークによるフランス革命批判の詳細に分け入ってもいいのですが、ここは敢えて回り道をして、まだ若い頃のバークの文学・美学思想について簡単に見ておきたいと思います。というのも、フランス革命に対するバークのリアクションを見るだけでは、その「保守思想」を支えている根っこの方にある感覚を見逃がしてしまう可能性があるからです。言い換えれば、プライス博士とバークとの間にある溝は、単に論理的なものであるより以上に、感性的なものであり、さらに、その感性的なものに対する「態度」の違いが、近代市民社会の「改革」を訴える合理主義者と、有機的に紡がれた「伝統」に従おうとする保守主義者とを分ける境界線を作り出しているのではないかと考えられるのです。
 たとえば、『フランス革命についての省察』を書き上げるちょうど33年前、28歳の若きバークは、『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』(1757年)という、一見、政治とは無関係な美学的著作をものしていましたが、そこに見出せるのも、やはり、合理には収まりきらない「内省を超えるもの」(『フランス革命についての省察』)でした。
 『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』の一節を引いておきましょう。

著者情報

文芸批評家

浜崎洋介

はまさき ようすけ

1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。

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