福島を語る(8)いまある空気を打ち破りたい
三浦英之(新聞記者、ルポライター)
三原由起子(歌人)
〈わが店に/売られしおもちゃの/ショベルカー/大きくなりて/わが店壊す〉
原発事故後の被災地の悲哀を詠ったその短歌を、私は福島県いわき市の老舗旅館「古滝屋」の一室にある「原子力災害考証館」で知った(福島を語る・第6回を参照)。詠んだのは浪江町出身の歌人で、現在は東京で詩歌・文芸出版社「いりの舎」を運営する三原由起子さん。浪江町の商店街にあったという彼女の実家は、偶然にも私が5年前に浪江町で新聞配達をしていたときに頻繁に眺めていたおもちゃ屋だった(現在は解体)。彼女の第一歌集『ふるさとは赤』を手に取ると、未曽有の原子力災害によって朽ち果てていくふるさとの姿と、その後の被災地における巨大権力への迎合によって崩壊していく個人の尊厳の対比が見事に描かれている。あの事故で我々が奪われたものとは何なのか。震災を詠み続ける歌人の「源泉」を知りたいと思った。(三浦英之)

三原由起子さん。取り壊された浪江小学校跡地にて
浪江町の記憶と失われた風景
三浦 三原由起子さんのご実家は、震災前まで浪江町の新町商店街で「乗り物センター三原」というお店をなさっていたんですよね。僕は実は2017年に福島に赴任したとき、当時の浪江町はまだ避難指示が解除されたばかりで、町に帰っている人がほとんどいなかったので、被災地の実情を知りたいと浪江町の新聞販売店で毎週1回、新聞配達をしていたことがあるんです。いつも深夜2時~3時に薄暗い街灯に照らされた三原さんのご実家のおもちゃ屋の前を通るのですが、こう言うと大変失礼なのですが、風雪でさけたビニール製のひさしがお化け屋敷のヤナギのようになって風にゆらゆらと揺れて……とても怖かったのを覚えています。原発事故前は、どのようなお店だったのでしょうか?

浪江町の商店街にある三原由起子さんの実家。2017年秋、三浦英之撮影
三原 私が〈わが店に/売られしおもちゃの……〉の歌に詠んだ舞台ですね。もともとは、曾祖父の時代にバイク屋として始まったと聞いています。実家が、浪江町の有名な作曲家の佐々木俊一の家があった場所という縁もあって、かつてはレコード店も営んでいました。自転車やおもちゃを売ったり、ゲームセンターもあったりと、手広くやっていました。原発事故で人の手が入らなくなり、廃墟のようになってしまっていましたが、2020年に取り壊され、その際の情景を詠んだのが〈わが店に/売られしおもちゃの……〉です。
三浦 その後、三原さんとは2020年に浪江小学校の取り壊しを巡る署名活動の際に、初めてお会いしましたね。
三原 そうですね。私は東京に住んでいたのですが、母校・浪江小学校が2020年度中に取り壊されると聞いて驚いたのです。コロナ禍で福島に帰れないので学び舎にお別れを言えない人が大勢いると思い、浪江町に対して、学校の取り壊しを少し延期して、コロナが収まってから閉校式をやってほしい、ということを訴える署名活動をやりました。1カ月間で紙とネット署名で3751筆が集まり、浪江町議会に提出したのですが、ささやかな願いは受け入れられず、2021年5月に取り壊されてしまいました。
建物を解体する際には環境省の助成金が出るため、私が育った浪江の商店街でも店の解体が進み、いまではまるで歯がかけた櫛のようになっています。以前は慣れ親しんだ建物が朽ち果てていくのを見るのがつらかったのですが、いまは建物がつぎつぎに取り壊されていき、その跡地や農地に次々と太陽光発電のパネルが設置されて、浪江町の景色がどんどん変わっていく。その状況に慣れてしまうことが、一番怖いです。町中にあんな板チョコみたいなものを敷き詰められて、それ以前の、震災直後に群生したセイタカアワダチソウなどの風景すら壊されていくことに、大きなショックを受けています。
三浦 三原さんにとって、ふるさとの浪江町はどういう存在だったのでしょうか?
三原 正直に言えば、私にとって上京するまでの浪江町は「息苦しい町」でした。実家の店は地域では有名で、だから、どこで誰に見られているかもわからなくて……。私は学校の中でもリーダーシップをとるタイプだったのですが、そうした目立った行動をとっていると、「生意気だ」と文句を言われたりして、中学時代は一時的に不登校になりました。自分が周囲から潰されていくのが本当につらかったし、一方で負けたくなかった。そんな息苦しさの中で、私は短歌を作り始めましたし、いまも生きる原動力になっています。

浪江町の居酒屋「いふ」にて対談する二人
原子力災害を美化しない
三浦 三原さんは、大学に進学する18歳まで浪江町で育ち、震災のときは東京にいて、いまは、東京で出版社を経営しながら、浪江町を見ている。第一歌集『ふるさとは赤』を読むと、浪江と東京という二つの異なる視点から、原子力災害を見ていることがはっきりと感じとれます。加えてEメールやSNSなど、物理的な距離が存在しない電子空間の中でのやり取りを通して、原発事故を描いていることも印象的です。たとえば〈「元気だよ、被曝してるけどね」って笑顔の絵文字の返信メール〉という作品がありますが、表現も生々しく、辛辣ですよね。
三原 私が短歌を作るときに意識しているのは、美化をしないということなんです。できるだけありのままに表現しようと心がけています。いま浪江に住むためには、どこか美化をしたり、何かそれなりの理由をつけたりしないと住めないと思うんですね。そもそも、国が避難指示を解除する際に、残存放射線量の基準値を事故前の年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへと大幅に上げていなければ、浪江町は帰ることもできない場所だったわけですから。それなのに、いまは「福島は元気です」という一方的なアピールがとても多く聞かれるようになった。一方で、戻った人の中にも複雑な心境でありながら、生活を続けている人がいる。私はそうした作られた空気によって現実が美化されて、事実をねじ曲げられてしまうのが嫌なんです。私は、いまあるそうした空気を打ち破りたいのです。
そういう面で言えば、震災から9年の2020年3月、安倍元首相が浪江町に来て記者会見をしたときに、三浦さんも周りの空気を打ち破って無通告質問をしましたよね。私は三浦さんのそうした姿勢にとても共感し、勇気づけられた一人なんです。
三浦 当時、安倍さんが福島に訪れた目的の一つは、自分が被災地にも興味を持っているよ、とメディアを通じて全国の人に見せることでした。それから、当時はちょうど新型コロナウイルスが流行り始めたときでしたので、国の政策に対する批判をかわそうという狙いがあった。でも、実際に記者会見の場所に行くと、そこは浪江町なのに福島の記者は入れず、東京の記者しかいない。つまり、安倍さんの発言は福島に向けてではなく、最初から東京に向けて発信されるものだったわけです。私は会見の場にもぐりこんで「福島はいまでもアンダーコントロールだと思っていますか?」という質問を安倍さんにぶつけました。福島で暮らしている人で、原発がアンダーコントロールだと思っている人は誰もいませんから……。

三浦英之さん。浪江町で新聞配達をしていたときには、この「いふ」で食事をとっていたという
帰るか、帰らないかという選択
三浦 三原さんの第一歌集『ふるさとは赤』を読んでいると、どれもいいのですが、個人的には〈ふるさとを/失いつつあるわれが今/歌わなければ/誰が歌うのか〉という歌が好きです。福島にいても、東京にいても、「原発被災地はまだまだひどい状況だよ」という指摘でさえ、言いにくい状況になっていますよね。どうして原発事故は、こんなにも語りづらいテーマになってしまったのだと思いますか?
三原 やはり「帰った人」「帰る人」「帰らない人」「帰れない人」と、住民が分断されてしまったことが大きいと思います。全員一緒に避難していたときには、みんなで批判ができたわけです。ところがいまは浪江に帰っている人がいるので、批判をしてはいけないという空気があります。私も「浪江に住んでいないのに批判をするな」と言われたりすることがあります。いまの浪江を批判すると、浪江に帰った人を批判していると見なされて、「風評加害」とか言われてしまう。でも、実際に放射能汚染は「風評」ではなく、明らかな「実害」です。「帰る」「帰らない」の選択は自由ですが、その事実から目を逸らしてはいけないと思います。