福島を語る(7)被災地は「可哀想な場所」ではない
三浦英之(新聞記者、ルポライター)
秋元菜々美
最近、被災地を取材で回っていると、ある変化に気づかされる。いわゆる「震災の伝承」と呼ばれる作業が、かつてのように時間的に余裕のある高齢者によってではなく、社会活動に積極的な将来を担う10代や20代の若者へと確実にシフトしてきている点である。福島県富岡町で語り部の活動を続ける24歳の秋元菜々美さんもその代表的な一人だ。大震災を主体的に体験した大人たちの視線や言葉ではなく、その傍らで、当時まだ未成年だった彼らはあの日、何を感じ、なぜいま、それを自らの口で語ろうとするのか。(三浦英之)

秋元菜々美さん。実家の近くにある夜の森の桜並木にて。
13歳で経験した3.11と原発事故
三浦 震災当時、秋元さんはまだ中学1年生でした。ちょうど、子どもと大人の中間くらいの時期だったんじゃないかと思います。地震や津波が起きたとき、どのようなことを感じていましたか?
秋元 そうですね。2011年3月11日、私は富岡町の中学生で、大きな地震が起きたときには友人4人と一緒に学校の近くのセブン-イレブンにいました。ちょうど『週刊少年ジャンプ』を立ち読みしていたんです。そしたら目の前のガラスが割れて、駐車場に出ると、津波警報がワンワン鳴って雪も降ってきた。なんというか「この世の終わりだ」と感じました。ただ、私にとっての一番の関心事は、そのとき隣で泣いている友だちをどう励ますかということで、とりあえず学校に戻り、親が迎えに来てくれるのを待ちました。親に連れられて帰っていく友だちに、「またね~」といつものように手を振ったりして。
三浦 そして、福島第一原発で未曽有の原発事故が起こります。福島第二原発が立地する富岡町の中学生だった秋元さんにとって、当時、原発はどのような存在でしたか?
秋元 私が生まれ育った富岡町には、「エネルギー館」という福島第二原発の情報センター(現・東京電力廃炉資料館)がありました。燃料棒のレプリカなどが展示されていたのですが、そこは同時に子どもたちにとっての遊び場でもあったんです。ゲームコーナーがあったり、ボールプールがあったりして、子どもにとっては楽しい場所でした。学校の授業で福島第二原発内に入ったこともあって、原発についてはいろいろと教えられてはいましたが、地震のときに原発が大丈夫かどうかについては正直考えませんでした。
三浦 大津波が起きて、原発が危機的な状況になったあとでさえも?
秋元 はい。翌12日に全町避難をするというときも、「避難」と「原発」が自分の中ではまだ直接結びついていませんでした。実は、3月11日、兄が福島第一原発で働いていたのですが、孫請けだったということもあったのか、当日のうちに帰ってきていたんです。まさか第一原発が爆発するとは思わず、「念のために避難しているだけだろうな」としか思っていませんでした。両親もすぐに家に帰れるだろうと思っていたので、着替えも持たず、家の中にある毛布と貴重品だけを持って、隣接する川内村の避難所に行きました。
ところが、その避難先の小学校で原発が水素爆発をする映像がテレビで流れたんです。薄暗い小学校で1台のテレビをみんなで見ていたのですが、大人たちは誰も言葉を発せずに、ただテレビを呆然と眺めていました。私はその様子を見て、「すごく大変なことが起きたんだ」と思ったことをいまでもよく覚えています。
16日まで川内村にいて、それ以降、大学生の姉が一人暮らしをしていた茨城県に避難し、ワンルームに5人で1週間を過ごしました。そのあと、千葉県の親戚の家を2軒ぐらい回ってから、千葉県の借り上げ住宅で半年間暮らし、福島県のいわき市へ移りました。

秋元さんと対談する三浦英之さん。富岡町文化交流センター「学びの森」にて。
中学時代はずっと原発事故について考えないようにしていた
三浦 当時、福島から避難してきた生徒に対する「いじめ報道」がありました。千葉の学校に通っていたとき、秋元さんは嫌な思いをした経験がありますか?
秋元 私自身は、いじめにあったことはありませんでした。避難先の千葉県でも津波の被害があったということもあり、とてもよくしてもらいました。借り上げ住宅のご近所さんも、学校の同級生も、「大変だったよね」と言ってくれて、すごくありがたいなと感じていました。ただ、私としては「富岡町にはもう帰れないかもしれない」ということがなかなか受け入れられなかった。
私にとっては、自分がかつて13年間過ごした富岡町は、「可哀想」と言われるような町ではなくて、すごく「楽しい町」だったんです。「大きな災害に見舞われた」という枕詞が付くことが、とてもつらく、嫌でした。だから、私はできるだけ富岡町出身だということを周囲に言わずに過ごしていました。報道も見たくなかったし、家族ともそういう話をしないようにしていました。
三浦 中学生というのは、思春期であり、アイデンティティを形成していく大事な時期ですよね。親への反発とか、自分への嫌悪感とか、将来への不安に悩んだりする時期に、原発事故は当時の秋元さんにどのような影響を与えたのでしょうか?
秋元 中学時代は、できるだけ原発事故について考えないようにしていました。いまこの瞬間さえ何とか成り立っていればいい、友だちと楽しく過ごせればそれでいい、そう思っていました。でも、そうやって自分がどういう状況にあるのか考えないというのは、結局は自分を大切にしないということだったのかな、といまは分かります。
学校の授業で震災を扱うときには、耳をふさいで机にうつ伏せになって、拒絶するという態度をとっていました。周囲も、それを許容してくれていました。
震災直後の中学2年生のときには、友だちと遊ぶ約束をよくドタキャンしました。いま思えば、精神的にすごくつらかったんだと思います。当時は「めんどうくさい」「行きたくない」と言って、友だちとよく喧嘩になっていました。

対談する二人。壁には美しい桜並木を描いた作品が飾られている。
3年ぶりの一時帰宅がもたらした変化
三浦 そうしたつらい状況から、少し立ち上がることができたきっかけは、どんなものだったのでしょうか?
秋元 私にとってそれは、高校1年生の16歳のときに、初めて一時帰宅をした瞬間でした。私の自宅は放射線量が高い帰還困難区域にあったので、15歳未満は入ることができなかったんです。3年間、故郷を離れてずっと考えないようにしてると、そこが自分の町であるという現実味がなくなってしまい、その町に住んでいた自分自身も実在していなかったんじゃないかという錯覚に陥ることが多々ありました。ところが、実際に自宅に一時帰宅をしてみると、目の前にまだ震災前の町並みが残っていて、「夢じゃない! 自分の町がここにちゃんとある!」と思ってホッとし、とてもうれしくなったんです。
三浦 ちょっとジーンとくる話ですね。でもその一方で、悲しいことに、秋元さんにとってかけがえのない町(原発被災地)は、年月を経るごとに除染のための解体工事などでどんどん町並みが失われていってしまう。秋元さんはそうした変化を、どのように受け止めていたのですか?
秋元 私が一時帰宅をした数年後には、私の実家にもハクビシンが棲みついてしまいました。ただ、最初に一時帰宅をしたときの実感があったからこそ、様変わりしていく家や町の状況を見ても、拒否反応は起きませんでした。むしろ、「原発事故というのは、こういうことなんだ」と理解できるように変わっていったんです。

秋元さんの実家跡。今は取り壊されて更地になっている。
高校の演劇部で培った客観的な視点
三浦 秋元さんはいわき市での高校時代は、演劇をなさっていますよね。表現する行為というのは、見たり聞いたりしたことを吸収して、自分の中で変換する作業が不可欠です。演じることによる、苦しさのようなものはありましたか?