「復興五輪」の現場から⑥ ある町長の死(1)
三浦英之(新聞記者、ルポライター)

その日の夜も飲んでいた。グラスの中で揺れているのはビールでも焼酎でもなく、ウーロン茶だ。いつもと同じく誰かが店に来るのを一人静かに待っていた。
居酒屋「いふ」――そこは当時、避難指示が解除されたばかりの福島県浪江町(なみえまち)で唯一、夜間に飲み食いができる場所だった。JR常磐線の浪江駅から徒歩5分。故郷に帰還した人々が日没後、長すぎる夜を嫌ってぽつりぽつりと集まってくる。
「偉いねえ、三浦さんは。酒も飲まずに」と気のいいマスターがカウンター越しに語り掛けてくる。「いつまで新聞配達を続けるつもりなの?」
「ええ……いつまでですかね」
店は長らく、私にとってなくてはならない取材拠点だった。「いふ」の2階には主に除染作業員などが寝泊まりできる下宿が併設されており(「新妻荘」というのがその正式な名称だったが、多くの利用者が階下の居酒屋の名前で呼んでいた)、私は浪江町内で新聞配達をするときには必ずこの「いふ」に予約を入れて仮眠を取ってから配達に向かうことにしていた(だからアルコール類を注文できなかった)。当時の私はまだ福島総局に所属しており、福島市から夜明け前の浪江町に向かうためには(パトカーでさえも事故を起こすと言われた)雪の国道114号を深夜1時間半も掛けて通わなければいけないことが表向きの理由だったが、私にとってはむしろ、「いふ」で提供される食事や店内で交わされる会話の方が大きかった。1泊2食付きで4860円。地方の下宿としてはそれほど安価とは言えないのかもしれなかったが、夕食には首都圏ではその倍の金額を払っても食べられないような新鮮な刺し身や煮付け、焼き魚がずらりと並んだ。
何より帰還住民たちとの雑談が魅力的だった。
「いふ」には当時、浪江町に帰還した住民たちが集うサロンのような空間が広がっており、カウンター席で夕食を食べてさえいれば名刺を切らなくても、誰とでも普通に世間話をすることができた。薄暗い蛍光灯に照らされたテーブルの上には食べ切れずに残された刺し身や煮付けと共に、インタビューという正式な取材では決して得ることのできない、帰還住民たちの本音のようなものが転がっていた。
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その夜は「名前」が酔客たちの話題に上った。
「なんでまた、東京電力は原発に『福島』なんていう中途半端な名前をつけちまったんだろうなぁ」
酔いつぶれた除染作業員らしき男は分厚い手の平で私の肩を叩きながら愚痴をこぼした。男は原発から60キロ以上離れた福島市の出身らしく、原発事故後の風評被害で実家の果樹園の経営が傾き、今は雇われ労働者として浪江で除染作業に従事しているのだと私に言った。
なぜ東京電力は原発に「福島」という呼称をつけたのか――。
それは原発被災地で取材を続けている私にとっても率直な疑問の一つだった。日本に点在している商用原発のほとんどが、「東京電力柏崎刈羽原発」「東北電力女川原発」のように原発が立地する市町村名を正式な名称として採用している。しかし、福島県の沿岸部に設置された東京電力の二つの原発にはなぜか、「大熊双葉原発」「楢葉富岡原発」とはならずに「福島第一原発」「福島第二原発」という都道府県の名前がついてしまっているのだ。
その名称の「広さ」が原発事故後に何をもたらしたか――答えは明白であり、残酷でもある。
史上最悪のレベル7の過酷事故を起こした「東京電力福島第一原発」という名称が世界各国に発信されたことにより、国内外の人々は無意識のうちに「原発事故」と「福島」を同一のものとして結びつけ、原発事故によってまるで福島県全域が高線量の放射能で汚染されてしまったかのような印象が拡散した。福島県は東京、神奈川、千葉、埼玉の4都県を合わせたよりも面積が広い。地理的には大きな山脈によって隔てられた「浜通り」「中通り」「会津」といった三つの独立した文化圏によって成り立っているが、そんな局所的な説明は「事故を起こした福島第一原発」という強烈なネーミングによって吹き飛ばされ、「中通り」に位置する福島市や郡山市はもちろん、その西側に位置し、むしろ日本海側に近い「会津」でさえも、長らく風評被害に苦しめられることになった。
もし、大事故を起こした原発の名前が「大熊双葉原発」であったなら、福島県全域に風評被害が広がることを防ぐことができたか――それは誰にもわからない。
「今からでも遅くはないから『大熊双葉原発』に変えてくんねぇかなぁ」と「いふ」の酔客は私に言ったが、事あるごとに多方面からの非難に晒され、組織防衛でがんじがらめになっている今の東京電力がそんな思い切った改称に乗り出すようには思えなかった。例え名称を変えたとしても、現実は何一つ変わらない。「東京電力福島第一原発」は史上最悪レベルの原子力災害を引き起こし、膨大な放射性物質と風評被害を福島県内にまき散らした。そしてそれは今もまだ、いつ修復できるかさえもわからない深刻な傷を負ったまま、我々のすぐ目の前に横たわっているのだ。
「そういえば、浪江町にも昔、原発を建設する計画があったよね」とカウンターの向こうでマスターが言った。「あの原発がもしできていたら、今頃どうなっていたんだろうなぁ」
その一言を聞いて、小さな痛みが胸に走った。
そう、今では多くの人がまるで忘れてしまったかのように振る舞っているが、この町にもかつて原発の誘致運動があった。
建設を目指した東北電力浪江・小高原発(1基、約83万キロワット)。
東日本大震災の発生と同時にひっそりと白紙化されたその計画の陰で、私は、その巨大電源を心から欲し、やがて裏切られるように死んでいった、一人の町長の生涯を思い起こしていた。
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「浪江町長をしております馬場有(ばば・たもつ)と申します。お手紙を頂いた件でお話をしたいのですが……」
その声は今も私のスマートフォンの留守番機能に残っている。福島県浪江町の馬場町長から直接連絡をもらったのは、浪江町の避難指示が一部で解除されてからようやく1年を迎えようとしていた2018年3月だった。
その春、私は避難指示解除後の浪江町の現実を伝えようと町内の新聞販売店で約半年間新聞配達を手伝いながら、朝日新聞の全国版に計15回の連載記事を執筆していた。
当時、一つだけ心残りがあった。避難指示解除後の浪江町の実像を描くためには町政のかじ取りを担う町長のインタビューが不可欠だったが、彼は当時、体調不良を理由に公務を長く休んでおり、取材が全くできなかったのである。私は連載終了後も時折新聞配達を続けながら浪江町が復興していく様子を――あるいは復興できずに荒廃していく様子を――定点観測的に記録できないかと考え、まずはその手始めとして前回取材ができなかった馬場町長に「町長の半生を口述筆記の形で書き残させて頂けないか」と取材依頼の手紙を出していた。
浪江町は「悲劇の町」と呼ばれる。
町内に原発が立地していないにもかかわらず、原発の爆発事故によって巻き上げられた大量の放射性物質を含んだ雲(プルーム)が浪江町内を縦貫するように北西方向へと流れ、やがて雨や雪と共に町内全域に降り注いだ。国や福島県は当時、それらの雲の流れを事前に察知していたが、その情報は浪江町には伝えらず、町は結果的に――あるいは悲劇的に――町民をあえて放射線量の極めて高い地域へと避難させてしまっていた。
馬場町長は震災前の2007年に町長に就任し、リーダーとしてその後の原発事故や6年に及んだ全町避難の対応にあたった第一級の当事者だった。私はそんな馬場町長の半生を口述筆記で記録することにより、浪江町や浪江町民が背負った「悲劇」の詳細を自らの手で書き残せないかと考えたのだ。
当初、取材依頼は病気を理由に断られるものと思っていた。ところが予想に反し、スマートフォンの留守番機能から聞こえてくる馬場町長の肉声は極めて好意的なものだった。
「実は新聞の連載記事を読んでいましてね」と電話を折り返すと馬場町長は明るい声で私に言った。「鈴木新聞舗を舞台にした『新聞舗の春』。いやいや、震災後いろいろなタイプの記者さんにお目に掛かりましたが、新聞配達までなさって記事を書かれた方は初めてでした。記事の内容も素晴らしく――というのは当事者である首長としてはいささか無責任に聞こえるかもしれませんが――浪江町の現状がそのままの形で記されていて、町政を預かる者としては心から感謝しておったところなのです」
「それでは口述筆記については……」と私は恐る恐る電話越しに尋ねた。
「ええ、結構です」と馬場町長は言った。そして少し言い淀んだ後、こう付け加えた。「ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「はい」と馬場町長は意図的に口調を改めて言った。「私は今も現職の首長です。発言の内容が周囲や議会に影響を及ぼさぬよう、掲載については私が許可するか、万一のことがあった場合に、という条件でお願いできませんでしょうか――」
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馬場町長への初めての口述筆記は2018年4月6日、浪江町中心部にある町長の自宅で行われた。
取材の直前、私は上司である担当デスクと取材の進め方についてかなり念入りな打ち合わせを持った。馬場町長との事前のやりとりにより口述筆記は全部で10回から15回、話が外部に漏れないよう自宅で約1年間掛けて実施することになっていた。加えて、町長からは「内容の掲載については私が許可するか、万一のことがあった後にして欲しい」との条件が付けられていた。新聞業界では通常、事実は確認が取れ次第、可能な限り速やかに報道することを是としている。町長の要望はそれらの職業的なルールに逸脱する可能性を孕んでいた。