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性知識イミダス:子宮は誰のものか?(前編)~女性が「産む/産まない」を決められない仕組みはどう作られたか

イミダス編

(構成・文/加藤裕子)

 意図しない妊娠に対し、「産む/産まない」を決めるのは誰なのか。日本では、女性(*)が「産まない」ことを選ぼうとするとき、本人だけではなく「配偶者」の同意を受け、「医師」が中絶手術を施す必要があるほか、その手術に高額な費用がかかるなど、さまざまなハードルが立ちはだかる。こうした要件は2023年4月に承認された経口中絶薬を使う場合にも継承されることになりそうだが、これらは中絶に関し女性の健康や権利を尊重する国際社会の動向とはかけ離れたものだ。中絶問題研究家の塚原久美さんは、「根本的な問題として、日本では産む/産まないを女性に決定させない、女性の人権を尊重しないという家父長制的な思惑が働いている」と分析する。妊娠という自分自身の体に起こることについて、当事者である女性が決められない仕組みが、日本でどのように作られ、維持されてきたのか、そしてそうした状況を変えていくにはどうすればいいのか、塚原さんにうかがった。

 

「産む・産まない」を女性が決められない歴史的背景

 ――本連載「心とからだを幸せにする性知識イミダス」では、以前、中絶に関する基本的な事項を紹介しました(関連記事【1】【2】参照)が、その時、日本で行われている中絶の方法が海外と比べて「遅れている」だけではなく、配偶者の同意が必要であることや、明治時代に定められた「堕胎罪」が今も残っていることを知りました。これらの制度が作られた歴史的背景は、いったいどのようなものだったのでしょうか。

 堕胎罪は1880(明治13)年制定の刑法(旧刑法)に定められたもので、1907(明治40)年に改正された新刑法ではさらに厳罰化され、今もそのままに残っています。

 明治期に妊娠を中絶することを犯罪化し、堕胎=違法行為とした理由としては、この頃の日本が欧米列強の仲間入りをしようと富国強兵の道を突き進んでおり、国力増強のためには高い出生率が必要と考えられていたことが挙げられます。また、明治憲法と旧民法の「家制度」の下では、妻や娘、また生まれてくる子どもは家の戸主である「家父長」のものでした。女性は「産む性」なのだから、家父長の知らぬ間に、勝手に堕胎するのは「けしからん」という発想だったのです。

戦後、国の都合で中絶が合法化される

 ――「けしからん」行為だと考えられていた中絶が、戦後に合法化されたのはなぜなのでしょうか。

 日本では1948年に優生保護法が制定されたことにより、要件を満たせば堕胎罪が適用されずに済むようになり、合法的に中絶できるようになりました。その翌年、いわゆる「経済的理由」による中絶が世界に先立って合法となり、さらに1952年の改正で医師ひとりの判断で中絶を行えるようになりました。欧米諸国ではほぼ1970年代まで中絶が違法だったことを考えると、日本における中絶の合法化は格段に早く、緩やかなものだったと言えます。

 しかし、優生保護法が認める中絶は、女性の権利の保護を第一の目的とするものではありませんでした。それは、戦後になって家制度が廃止され、男女平等が認められたというのに、優生保護法に「第三章 母性保護」(任意の人工妊娠中絶)を新設しながら、「配偶者の同意」という要件をわざわざ付け加えたことからも明らかです。この配偶者同意要件は、優生保護法が1996年に母体保護法へと改正・改称された後も残り続けていて、法務省は21世紀になっても、「現行法の下では、夫ではない男性にレイプされた女性が中絶を望むケースでも、夫の許可が必要」などと発言しています(2022年11月「セーフ・アボーション院内集会」にて)。

 また、優生保護法第一条が「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と始まるように、同法の主眼はあくまで優生思想にあったと言えます。優生保護法案を1947年に提出した谷口弥三郎参議院議員は、同法が通れば「80万人の望ましくない要素をもった出生を防ぐ」とし、産児制限によって「逆淘汰」(註:ここでは、教養ある上層階級の生殖率が低く、無学の下層階級の生殖率が高い現象を指す)を防げると主張しました。
 こうした優生思想は既に戦前から広まっていました。19世紀後半以降、優生学が世界的に流行し、日本でも1930年代に「民族衛生特別委員会」「日本民族衛生学会」などが設立されます。一連の流れの中で、1940年、ナチス・ドイツの「断種法」を手本に、国民の「量と質」を管理することを目的とする国民優生法が制定されました。ただ、この法律に基づく強制不妊手術には煩雑な手続きが必要で、終戦までの5年間で適用されたのは454人にとどまり、申請の多くは却下されています。これに対し、優生保護法は、遺伝性の障害者など「質が劣る」とみなした人びとへの強制的な不妊手術や中絶の手続きを簡略化することで、障害者差別という人権侵害をさらに進めることになったのです。この状況は1996年の母体保護法成立まで続きました。

 ――そのような人権上の問題がある法律に反対する議員はいなかったのでしょうか。

 優生保護法案が提出されてから「優生保護法制定反対の陳情書」が2度出されたのですが、最終的に谷口の法案は全会一致で可決されました。これには戦後間もない日本が人口の急増に直面し、食糧不足や住居不足が危惧されていたという事情がありました。戦時中の「産めよ増やせよ」から一転、人口抑制政策が望ましいとされる時代状況だったのです。
 また、敗戦前に旧満洲(現在の中国東北部)などに暮らしていた日本人の中には、戦後の混乱の中でソ連兵等に強姦され妊娠する女性が少なからずおり、それを「日本人の血が穢(けが)される」「国辱」と考える人々もいました。一方的に押されるそうした「恥辱」の烙印(らくいん)に耐えられず、引き揚げ船から身投げする女性たちもいたと言われます。そして、引き揚げ船で日本の港に着いた妊娠可能年齢の女性たちは全員検査され、妊娠していれば中絶させられました。このあたりの経緯については、『沈黙の四十年――引き揚げ女性強制中絶の記録』(武田繁太郎著、中央公論社、1985年)や『水子の譜(うた)――ドキュメント引揚孤児と女たち』(上坪隆著、文元社、2005年)に詳しく書かれています。

 

指定医師制度が阻む女性の選択

 ――優生保護法では「指定医師制度」も新たに設けられました。この制度は母体保護法にも引き継がれ、現在も続いています。指定医師制度の導入にはどのような意図があったのでしょうか。

 指定医師制度が設けられる以前、避妊の手段もほぼない中で、さまざまな事情から「産まない」選択をせざるを得ない状況におかれ、非合法の危険な中絶に頼る女性たちも少なくありませんでした。現在では中絶できないとされる時期まで妊娠週数が進んでからの中絶や、麻酔もなしに医師が素手で処置するようなこともあったそうですし、やむにやまれず獣医や歯科医、医師でない人に頼った女性たちもいたと言われています。ですから、優生保護法で各都道府県の医師会が指定する産婦人科医(指定医師)だけが中絶を行えると定めたことにより、中絶に一定の安全性が保障されたという側面はあります。ただ、これをもってして日本の中絶が安全と言えるかといえばまったく別の問題だということは、後編で改めて述べたいと思います。ちなみに、前述の谷口議員は指定医師団体の「日本母性保護医協会(略称「日母」。現在の日本産婦人科医会)」の初代会長に就き、亡くなるまで日母は彼の支持母体でした。
 指定医師制度の最大の問題は、指定医師が中絶の業務を独占する状況がずっと続いたことで利権が発生し、現在の日本の中絶が世界標準から非常に遅れた医療になってしまっていることです。

 ――たとえばどのような例があるのでしょうか。

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イミダス編

いみだすへん

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