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連載

外国人を人間と見なさない「入管」の根源を問う

第24回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

 サッカーのミャンマー代表選手であったピエリアンアウンの難民認定が、大阪出入国在留管理局(大阪入管)で8月20日に下された(難民証明書の日付は8月12日)。このゴールキーパーは5月に行われたW杯アジア2次予選の対日本戦において、国軍のクーデターに抗議を示す3本指ポーズを示したことで、帰国すれば、空港で逮捕、拷問は確実であろうと言われていた。

難民認定を受けたピエリアンアウンさん(右)と、空野佳弘弁護士

 彼の難民申請を担当する空野佳弘弁護士は「日本で難民認定がされにくいのは、帰国した場合の迫害脅威を難民申請者本人が証明するという、そもそも困難なことを求められるからです。着の身着のままで追われる難民が逃げるときに写真などの物証を撮れる余裕があるはずがない。しかし、今回は3本指ポーズの国際映像が確固として残っています。国軍が抵抗者を逮捕、殺害しているミャンマー国内の厳しい状況も日本政府はすでに承知しているので、入管は認定の判断を迷うことはなかったはずです」と話す。
 6月22日の難民申請からたった2カ月というスピード認定、しかも5年という長期にわたる在留許可はどちらも異例ということでひと際注目を集めた。認定自体は評価されるべきことである。
 しかし、ひとつの疑念があった。この認定は、名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが3月6日に死亡した事件の失地回復を、入管が狙ったものではないのか。収容中のウィシュマさんは今年1月頃から体調を著しく崩していたにもかかわらず、入管当局は治療措置さえ行わず、処遇担当者は食事もとれず苦しむその様を見下し嘲笑していた事実が明らかになった。出入国在留管理庁(入管庁)は死亡に関する報告書を出してきたが、それは第三者による検証ではなく当該加害側である入管によるお手盛りなレポートである。またウィシュマさんの遺族が行った治療に関する資料の開示請求に対してはそのほとんどを黒塗りにした1万5000枚の文書を送りつけ、開示費用の15万6760円を請求してきた。責任に向き合おうとしない入管の卑劣な態度に世論の怒りは沸点に達していた。

2021年5月29日、東京の築地本願寺で開かれた「ウィシュマさんを偲ぶ会」にて

 そんなおりでのピエリアンアウンのスピード難民認定である。直接的に因果関係を証明するものはないが、一つの符合がある。8月10日午前5時。読売新聞が「ミャンマー選手を出入国在留管理当局が難民として認定することがわかった」との一報を打った。そして同じ10日の午前に、ウィシュマさんが死亡した問題の報告書が入管庁によって公表されたのである。そこでは名古屋入管の佐野豪俊局長と渡辺伸一次長の訓告などが発表され、上川陽子法相の謝罪が行われた。まさに同日にぶつけたかたちである。読売はどこから「近くミャンマー選手の難民認定」のネタを掴んだのか? 入管庁当局がウィシュマさん死亡事件に対する矛先を鈍らせるために(こんなことで到底鈍るものではないが)、不祥事の会見の日を狙って自ら新聞社にリークしたと見るのが、自然だろう。

 では、ピエリアンアウンの認定後、ミャンマーの難民申請者に対する入管行政は変わったのか?
 難民流出の根本原因であるミャンマーの軍政による民衆弾圧の歴史を振り返るとともに、それに伴う日本の入管の対応はどうであったのか。30年にわたるその変遷を知る「在日ビルマ人難民申請弁護団」の事務局長、渡邉彰悟弁護士に話を訊いた。

「8888運動」とそれに対する弾圧

 1988年に大規模な民主化運動(8888運動)がミャンマー全土で起こり、このデモを鎮圧した国軍がSLORC(国家法秩序回復評議会)を樹立した。SLORCは対外的にはデモクラシーを標榜していたが、その実体は、以前と同じ国軍による独裁政府であった。国名がビルマ連邦からミャンマー連邦に変えられたのはこのやや後(1989年6月)で、テレビ朝日の「ニュースステーション」のキャスターであった久米宏は「軍事クーデターにより成立したミャンマーを認めない」として、番組では一貫して旧国名のビルマと言い続けていた。1990年5月に行われた選挙は、アウンサンスーチー率いる政党NLD(国民民主連盟)が8割の議席を占めるという民主化側の圧勝に終わった。しかし、国軍側はこの結果を認めず、権力譲渡をしないまま以降も弾圧を続けた。その結果、多くの市民が国外へ逃れた。
 これらの背景を見て、日本国内では民主化運動を続けるミャンマーの人々を救済すべく、1992年に在日ビルマ人難民申請弁護団が立ち上がった。弁護団は同年12月に12名 の難民申請をして以来、翌年以降も毎年申請を続けた。先述したようにメディアの一部は軍政を認めない態度を明確にしていたが、入管は一切の結論を出さずに判断を引き延ばし続けた。初めて認定がなされたのは、なんと6年後の1998年だった。渡邉弁護士はこれを、苛立ちを込めて「塩漬け」と喩えた。

「ずっと難民申請が塩漬けにされていて、認定がなされたのが、1998年8月に緒方貞子さん(当時の国連難民高等弁務官)が法務省で問題提起をしてからです。すでにアウンサンスーチー氏が軍事政権によって軟禁状態に置かれていて、酷い人権状況であったのが分かっていたのに(難民申請を)塩漬けにしていたのは、国軍のクーデターで誕生したSLORCを早々と承認したのが、日本政府であったからです。軍政であるにもかかわらず、距離を取らずに友好関係を保っていたかったからです」

 ミャンマー人の難民認定は政治案件とされていた。難民保護の大原則はそこに政治を持ちこまないということが国際的な大前提であるにもかかわらず、その禁を大きく破っていたと言えよう。緒方効果でようやく認定者が出たが、以降も相変わらず「塩漬け」や不認定が続いていた。

2007年の変化

 次に変化があったのが2007年である。何があったのか。ミャンマーで民主化デモを取材していた日本人ジャーナリストの長井健司氏が、同年9月に国軍兵士の銃撃によって死亡するという事件が起きたのである。以降、2011年までミャンマー人に対する「人道配慮」措置(※難民条約で定義された難民〈条約難民〉としては認定しないが、国際的な保護を必要とする申請者に対し、人道上の観点から在留を許可する措置)の件数が飛躍的に伸びた。

「日本人記者が現地で殺されてからようやくです。ようやくミャンマー人難民申請者の保護が必要だと気づいたのです。しかし、それでも難民認定はしなかった。あくまでも人道配慮で、難民として保護すべき人たちをあいまいな形で保護したのです。人道配慮は1年ごとに更新をしないといけない」

欺瞞に満ちた「民主化」を受け入れた不認定の時代 

 2010年の総選挙を経て、テインセイン政権が誕生すると、これを日本の法務省は「民主化」と捉えた。当該総選挙は2008年制定の新憲法に基づくものであるが、この新憲法は不正な国民投票で承認・成立させられたものであり、国軍が国会議席の25%を確保することが記されている。国軍の権力維持が担保されている2011年に「ミャンマーが民主化した」などと考えるような国際的な難民認定機関は存在せず、実際に軍幹部のテインセインが大統領に就任して以降、激化した国内紛争によって追われたカチン、カレンなど少数民族の人々が日本に逃れて来た。

「しかし、もう日本の入管はミャンマー人難民申請者に向き合うことを止めてしまいました。以降、難民認定はほぼされなくなった。そこからの政治的配慮は露骨でした。あの当時に難民認定機関である入管が、テインセイン政権を民政だと評価するのは絶対におかしい。NLDは(2010年の総選挙を)ボイコットしていたし、軍政の継承でしかないわけです。日本政府も日本企業も実はこういうことを分かっていながら、ミャンマー支援を続けてきたのです。深く関わることでミャンマー権益を吸ってきた人たちなので、そういった事実を見たがらないのです」

NLD政権時のロヒンギャ弾圧

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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