空爆から20年後の旧ユーゴスラビアを行く (1)セルビア編
木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)
祝うべき空爆?
1999年に米国が主導して行った、NATO軍によるユーゴスラビア空爆から今年(2019年)で20周年を迎えた。6月にコソボの首都プリシュティナでビル・クリントン(当時米国大統領)とマデレーン・オルブライト(当時米国国務長官)を招待した祝賀式典が行われるというので、現地に向かった。繰り返すが、これはコソボ共和国の独立を祝う式典ではない。空爆という戦闘行為を祝う式典である。コソボ政府が英語でリリースした文面は「In honour of marking of the 20th Anniversary of Deployment of NATO Troops in Kosovo」。悲しいことに、多くの民間人が犠牲になった武力行為を奉賀している。
東京大空襲を敢行し、広島・長崎に原水爆を落とした米国も「戦争終結を早めた」「アジアの解放のため」などの言い訳はするものの、3月10日や8月6日、9日に記念式典は行わない。それと比較すれば、現在のコソボでは、人道を政治が越えてしまっている。しかし、この祝賀式典に関して、そういった指摘をするマスメディアは皆無であった。現在に至り、国際報道の世界においてさえNATOのユーゴスラビア空爆は「やむなし」と看過されるにとどまらず、「祝うべき」行為であるという認識が流通してしまっている。
米国が「和平調停」をお題目に、国連決議を待たずに軍事介入する例は、アフガニスタンやイラクよりこの1999年のユーゴ空爆が先である。世界はあそこから変わってしまった。それから20年が経過して今、ユーゴ空爆は何をもたらしているのか。セルビアからコソボにかけての取材を前編後編に分けて綴る。

コソボの首都プリシュティナ。ビル・クリントン元米国大統領を歓迎する巨大な垂れ幕
民族間紛争から独立までの20年
今一度、歴史を振り返ろう。コソボはかつて、ユーゴスラビア連邦セルビア共和国の中の一自治州だった。多数派のアルバニア系住民と、ここを聖地と考えるセルビア系住民が共存していた。コソボの自治とはまさにアルバニア系住民のためのもので、当時はアルバニア語教育などが認められていた。
1980年代は、「本国」アルバニアが、独裁者エンベル・ホッジャが始めた鎖国によって欧州最貧国となったために、この寛容なセルビアのコソボ自治州を目指し難民となって流れくるアルバニア人が多数存在した。むしろ当時は少数派のセルビア系住民が被害にあっていたという事実も存在する。
そんな中、1989年、セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領が、コソボ自治州から自治権を剥奪した。コソボのセルビア人に向けて行った演説の一節、「もう君たちを殴らせはしない」に象徴されるように、ミロシェビッチは随所でセルビアナショナリズムを煽ることで求心力を得ていく。以降、セルビア政府によるアルバニア人への迫害は強まっていった。
1998年にはセルビア治安部隊と、武装蜂起による独立を目指すアルバニア人組織KLA(コソボ解放軍)との武力衝突が激化し、人道危機に陥った。これに対して、米国の主導によりNATO軍が1999年3月にコソボを含むセルビア全土に向けて空爆を開始したのである。
3カ月にわたった空爆は熾烈を極め、終結の条件としてコソボに駐留していたセルビア治安部隊は撤退を余儀なくされた。人口で勝るコソボのアルバニア人にとってみれば、確かにこの空爆は福音だったと言えよう。一方、セルビア人にすれば、コソボは中世より栄えたセルビア正教の聖地であり、かけがえの無い土地であった。ここからの軍隊の撤退は屈辱以外の何物でもなかった。
そして世界のほとんどのマスメディアは、あたかもこれで平和が訪れたかのように錯覚し、この時点でコソボ報道を止めてしまった。しかし、実際は反転するかのように、非アルバニア人に対する「民族浄化」や、KLAに服従しないアルバニア人に対する人権侵害がこれより始まったのである。組織的に行われた拉致による殺害や臓器密売など、その具体的な事例は拙著『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』(集英社新書)や本連載の過去記事を参照して頂きたい。
その後のコソボは国連UNMIK(国連コソボ暫定統治機構)による統治が続いたが、2008年にはKLAが幹部となった新コソボ政府が独立を宣言し、米国がこれを承認してしまった。日本政府もこれに追随する。
身も蓋も無い言い方をすれば、今のコソボ政府は米国の横紙破りによって拙速な建国がなされた。首都プリシュティナの南に位置するボンドスティールの地に米軍基地を建設したかったクリントン政権が、軍事介入するにあたり、それまでテロ組織と認定していたKLAと友軍関係を結び、空爆終了後もKLAの幹部をUNMIKの高官として登用した。もしもこのときに米国が、同じアルバニア人リーダーでも非暴力での解放を唱えていた穏健派の文民「コソボのガンジー」こと、イブラヒム・ルゴバをパートナーとして選んでいたら、紛争後、セルビア人への歩み寄りも進んだのは間違いなく、現在よりも寛容なコソボ社会が実現していたと思えてならない。筆者が1999年にルゴバに対して行ったインタビューでは、「私はアルバニア人だが、コソボはアルバニア人だけの国にしてはいけない」と主張していた。対してアルバニア民族主義を標榜し、空爆前には交番を襲いセルビア人警官を殺害していたKLAの統治では、信頼関係を構築する上で、セルビア人のみならず、他の少数民族にとっても脅威である。
2019年現在、独立宣言から11年が経過したが、コソボの地位は相変わらず安定せず、国連加盟国193の内、半数近くがコソボを独立国家として承認していない。認めていないのは、セルビアを筆頭にロシア、中国、そしてスペイン、ギリシャなど内部に民族問題を抱える国々であるが、また、各国のNGOからも「そもそもがまだコソボは法治国家としての体を成していない。書類の回り方もルーズで旧来の縁故主義社会がそのまま残ってしまっている」という批判が聞こえてくる。一方で国内のアルバニアナショナリズムは沸騰し、隣国であり、本国であるアルバニアとの合併を主張する政党「自己決定運動」が、コソボ議会で最大議席数を獲得している。さすがに国境線を変えることは米国も認めないであろうから、このナショナリズムの落としどころはどこになるのか、不安はぬぐい切れない。
クラスター爆弾と劣化ウラン弾にさらされた町、ニシュ
コソボ紛争については、切り取り方で見方が180度変わってしまうので、前置きがどうしても長くなる。空爆20周年記念式典の取材は、当時の傷跡と現状のルポ、双方を交えなければ、ただの政治ショーの紹介に堕してしまうということを心掛けないといけない。
最初に向かったのは、セルビア南部の都市ニシュ。空爆時に大きな被害をもたらされ、大量の難民を生んだ町である。
余談だがサッカーの世界で言えば、ここは名古屋グランパスで選手、監督として活躍したドラガン・ストイコビッチの故郷でもある。NATO軍による空爆時、その「ピクシー(妖精)」が生まれた町に、クラスター爆弾が投下されたことはあまり知られていない。クラスター爆弾は、集束爆弾とも呼ばれており、大量の子弾を内包する親弾が空中で爆発すると、散弾して広範囲を破壊・殺傷する。かつてはベトナム戦争で米軍が用いて猛威を振るった兵器である。着弾後も実に約4割の不発弾が残り、それに触れた子どもを含む非戦闘員が殺傷されることから、非人道性が古くから指摘されており、2008年以降はオスロ条約によって保有、製造、使用等が全面的に禁止されている。
ユーゴでも当然ながら悲劇は起きた。ブラニスラブ・カペタノビッチ(当時35歳)は、空爆終結から約1年半が経過した2000年11月にニシュから30キロほど離れたクラリエボで地雷の除去・回収処理をしていて不発弾の被害に遭った。一時は心肺停止状態となり、20回以上の手術を受けて命は助かったものの、両手両足を切断、片目は失明、左耳の機能も失っている。それでもカペタノビッチは、不屈の精神でリハビリに励み社会復帰を果たすと、クラスター爆弾の禁止を目指すNGO「クラスター兵器連合」のスポークスマンとしての活動を開始する。
2008年4月には来日して、当時クラスター爆弾の全面禁止条約への参加態度を保留していた日本政府に対して「条約制定にぜひ参加して欲しい」と訴えた。日本政府はクラスター爆弾を保有しており、「抑止力として使うことは評価されるべき」と主張していたが、カペタノビッチは、「爆弾に良いも悪いも無い。使用すれば民間人が傷つくので抑止どころか、被害は増える」と当事者として一刀両断した。日本滞在中はクラスター禁止シンポジウムに出席し、衆参両院議長への訪問や記者会見など、精力的に活動し、名古屋ではグランパスのストイコビッチ監督(当時)とも面談した。ストイコビッチもまた「この爆弾で最も被害に遭うのは、子どもたちだ」と廃絶を訴えた。

2008年に来日したカペタノビッチさん