「ストリートチルドレン」と呼ばれて10 子どもという宝と重荷
工藤律子(ジャーナリスト)
生きる意味を見出し、娘とともに懸命に「普通の生活」を手に入れようと奮闘するオルガ。私たちの目には、その闘いが彼女の人生を良い方向へと導いているように見えた。施設の中でも、オルガの存在はほかの母親たちに受け入れられ、そのリーダーシップはひとつ屋根の下で暮らす少女たちの信頼を得て、オルガ自身のモチベーションも上げているようだった。ところが――。

路上や貧困家庭から来た幼いシングルマザーとその子どもが暮らすNGO施設「カサ・ダヤ」。母親たちが協力し合う中、「カサ・ダヤ」で生活している子どもたちは、皆、きょうだいのように仲良く遊んでいた 撮影:篠田有史
アクティーボの誘惑
2002年の初め、施設を運営するNGO「カサ・ダヤ」から、日本にいる私に1通のメールが届いた。
「オルガが、ここを飛び出してしまいました」
まさか。私は自分の目を疑った。夏にまた「カサ・ダヤ」で会えると思っていたオルガが、そこから消えてしまうとは、夢にも思っていなかったからだ。事の経緯を読んで、私は改めて「路上生活を抜け出すことの難しさ」を痛感することになる。
「カサ・ダヤ」のスタッフによれば、オルガは、同じ施設で暮らす、路上にいる頃からの知り合いの少女に誘われ、彼女とともに、娘を連れてフラっと出ていってしまったという。2人とも、路上ではアクティーボを常用していたため、その誘惑に駆られて施設を離れたらしい。出ていく前に、施設の建て増し工事に来ていた作業員から、陰で何度かアクティーボをもらっていたらしく、それが引き金になったようだった。
振り返れば、半年ほど前のインタビューの際、彼女は気になることも話していた。なぜ路上生活を抜け出せなかったのか、と尋ねた時のことだ。
「私にとっては、もうそれがライフスタイルになってたから。アクティーボもそう。それをやるために、路上へ戻りたくなることがある」
まさにその言葉通りの行動を、彼女は起こしてしまった。
人権ワークショップの指導役を堂々とこなしているのは、精神的に安定している時期で、心の調子には大きな波があった。その事実を、彼女自身が危惧していた。波がある大きな原因のひとつは、長期間にわたって頻繁に薬物を使っていたことなのだが、その波を抑えるためにまた薬物を欲してしまうという矛盾。
「特にひどく落ち込んだ時には、無性にアクティーボがほしくなる」
と言うオルガにとって、その悪循環を断つことは簡単ではなかったのだ。
路上でアクティーボを吸い続けている子どもたちは、カルロスもそうだが、皆、彼女と同じ問題を抱えている。乗り越えるためには、それを可能にする環境と本人の強い意志が必要だ。その条件が少しでも崩れると、努力はあっという間に水の泡になる。それが普通だった。果たしてオルガもお決まりの結末を逃れることは、できないのだろうか……。

オルガを長年支えている「お母さん」、モニカさん 撮影:篠田有史
娘のために
しばらくして、「カサ・ダヤ」から新たな知らせが来た。うれしいニュース。オルガが娘とともに、施設に戻ったのだ。そして、心の安定を得るためにも、かつて滞在していたことがある別の施設、つまり娘が生まれる前にいた所に一時滞在することになったという。
「その団体の代表、モニカさんは、オルガにとって母親のような存在なので、彼女のもとで落ち着きを取り戻そうということになりました」
それが、スタッフからの説明だった。
数カ月後、篠田より先にメキシコシティに到着した私は、さっそく「カサ・ダヤ」のスタッフからオルガがいる定住施設の電話番号と住所を聞いて、訪ねてみることにした。行く前に訪問の許可を得ようと、電話をかけてみる。すると、電話口の施設スタッフが、こう応じた。
「リツコですね。オルガがいつもあなたのことを話してくれます。できればすぐに来てください。実は彼女、明日か明後日から職業訓練プログラムに参加するために、(メキシコシティから車で南東へ2時間ほどの)プエブラへ引っ越すんです」
私は慌てて地下鉄に乗り、西の終点駅から乗合バスに乗り換えて、オルガがいる施設を目指した。それは、街の西部にある小高い丘の上のスラムの一角にあった。50分ほどかけてたどり着いた施設の入り口は、呼び鈴の付いていない、大きな黒い鉄製の扉だった。
私はその扉を数回、ドンドンと叩く。数秒おいて、中から「誰?」と叫ぶ声がした。「オルガの友達です」と応じると、内側で鍵を開ける音がした。そして扉が開いた瞬間、目の前に立つ少女が叫んだ。
「何で、ここに!?」
そう言うと同時に抱きつくオルガに、「会いにきたに決まってるじゃない」と答えると、
「ピンチェ・リツコ(クソ律子)、会えてうれしいわ!」
と、強く抱きしめてくれた。モニカさんはじめ、施設のスタッフは、オルガを驚かそうと、私が来ることを伝えていなかったのだ。
庶民が親しい間柄で使う形容詞「ピンチェ」で迎えられたことに、オルガの信頼を感じた私は、ホッとしながら一緒に施設の中へ入り、しばしおしゃべりを楽しむことにした。
そこは普通の住宅を少し改造しただけのアットホームな所で、いくつかの部屋に何台ものベッドが並べられ、小・中学生くらいの少女たちが暮らしていた。この定住施設は(独身の)少女のみが対象であるため、オルガは特別に受け入れられていた。

モニカさんらが設立・運営するNGOの女子定住施設の部屋(2019年)。オルガが世話になった頃は、もっと狭い部屋にベッドがぎっしり並べられていた 撮影:篠田有史
オルガの「お母さん」、モニカさんが、今後の予定を教えてくれる。
「2日後に行くプエブラでは、普通の家庭にホームステイしながら、ぬいぐるみ工場で働けるんです。子どもの面倒も見てくれるうえ、仕事を覚えれば給金ももらえます。娘と2人で自立したいというオルガには、魅力的な選択肢だと思います」
それにしても、オルガはよく路上から戻ってきたものだ。路上仲間とまた薬物に手を出してしまえば、普通はそれをやめて、1人、施設に戻ることは難しい。一緒に出ていった少女は戻らず、オルガ1人が娘を連れて帰ってきたというから、相当な覚悟だ。なぜそれができたのか? 本人に問いかけると、こんな言葉が返ってきた。
「1週間くらい路上にいる間に、私はともかく、娘はこんな所にいてはいけない、と思ったの」
オルガは、路上の仲間たちに、娘のそばでアクティーボなどの薬物を延々と使ったり、酒を飲んで騒いだりしないよう、頼んだという。にもかかわらず、彼らがそれを守らないことが、彼女は我慢できなかった。娘が薬物を嗅ぎ続け、危険な行動をとる人間のそばにいることが、母親として許せなかったのだ。
またしても、娘が母親を救った。私にはそう思えた。と同時に、プエブラで職業訓練を受けるという彼女の計画に、密かな期待を抱いた。路上仲間のいない地域で、家庭的な環境の下、子育ても手伝ってもらいながら仕事に専念することができれば、薬物や路上という誘惑に負けることは避けられるかもしれない。
「でも、本当は不安なの」
オルガの気持ちは、実は相当揺らいでいた。本来ならば、私がメキシコに到着するよりも前に、すでにプエブラへ引っ越しているはずだったと言う。
「普通の家で暮らしたことはほとんどないし、ひとつの仕事に規則正しく取り組んだこともないし……できるかどうか」
そう弱音を吐くオルガに、私は、長い路上生活を生き抜き、子どもを産んだ後もより良い人生をつかもうとがんばってきた彼女なら、時間はかかっても、きっとやり遂げるに違いないと、エールを送った。それに対し、「闘う母」は、照れくさそうな笑みを浮かべながら、静かに「ありがとう」を繰り返した。

モニカさんらが設立・運営するNGOのデイセンターにて。右から、タバコを吸うオルガ、娘のアナベレン、筆者、デイセンターに来ていた少女。2003年 撮影:篠田有史