「社会的連帯経済」への誘い20 地域協同組合「無茶々園」 自立したコミュニティを築く
工藤律子(ジャーナリスト)
この連載をもとに再構成した書籍『働くことの小さな革命 ルポ 日本の「社会的連帯経済」』が、集英社新書より2025年2月に刊行されました!
地域協同組合「無茶々園」は、美しい石垣の段々畑が連なる山と海に囲まれた、愛媛県西予市明浜町(人口約2800)に拠点を置く。協同組合や株式会社など、形式の異なる地域の事業組織をまとめた「地域協同組合」として活動している。その組合員は、農業・漁業生産者、会社従業員など、様々。多様な人たちを受け入れながら成長してきた、無茶々園の運動の中にある「社会的連帯経済」を探る。

無茶々園の本拠地、明浜町。宇和海と町と山林、そして石積みの段々畑がつくる景観は、国の重要文化的景観にも指定されたほど、美しく心を穏やかにしてくれるものだ。撮影:篠田有史
競争するより人と環境
「みかん農家が生き延びるには、全国の農家と競争するよりも、健康や環境を考えた農業をやるほうがええんやないかと」
無茶々園の創立メンバーで元代表の片山元治さん(74)は、すべてはそこから始まったと語る。片山さんたち若い農業後継者の小さなグループが、1974年、お寺の伊予柑園を借りて実験園「無茶々園」を設立。みかん(伊予柑)の無農薬栽培を始めた。「江戸時代にはやってたから、やれんことはないんやないかと考えて」と片山さん。それは、当時反響を呼んでいた有吉佐和子の朝日新聞の連載「複合汚染」やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読み、農薬などによる環境汚染や人体への影響を知った若者たちの挑戦だった。その背景には、みかん農家の危機があった。
明浜町では、半農半漁だった暮らしが、1961年、急速な経済成長を目指す政府の方針に従って商品作物「みかん」だけを作る農業生活へと変わる。西日本の段々畑が広がる海岸部は、どこも同じ状況だった。ところが約10年後、みかんの木がようやく大きく育った頃に干ばつ、そして供給過剰によるみかんの市場価格の暴落が起き、農家は危機的状況に追い込まれる。それでも農協は、売れるみかんを作るために農薬や化学肥料などの使用を推奨し、「全国の農家に負けるな、競争せよ」と煽り続けたという。そのやり方に疑問を抱いた片山さんたちは、無農薬栽培に取り組んだのだ。

創立メンバー、片山元治さん。無茶々園の仕事は引退したというが、次は「全国で農業をどう発展させていくかを学んでいる学生たち」に手伝ってもらい、YouTubeで情報発信するユーチューバーになろうと企んでいる。撮影:篠田有史
ところが、最初は見かけの悪いみかんばかりで、売れなかった。「対策を考えるために集まっては、農協へのツケで買った酒を飲んでたんで、借金ばかり増えた」と、笑う片山さん。そうして迎えた3年目、愛媛県松山市の自然食品店でみかんを高く買ってもらえたことが突破口となり、有機農業が徐々に軌道に乗り始める。
そこで販路の拡大のために、東京にある「日本有機農業研究会(JOAA)」を訪ねた片山さんを待ち受けていたのは、予想外の反応だった。
「食べ物は、ただ売ればいいというもんじゃない! と怒られて。生産者と消費者が互いに顔の見える付き合いで理解し合う、今で言う“産直”が大切だと教えられ、その考えも悪くないなと思った」
片山さんたちは、生産者と消費者の相互理解に基づく有機農業を模索し始める。そして、生協を通じた都市の消費者とのつながりを築き、生産者自身が適正な価格を決める産直販売を開始。1988年には、無茶々園に参加するみかん農家も64名に増えていた。
そんななか、無茶々園の「社員第1号」となったのが、現在、株式会社地域法人「無茶々園」の代表取締役を務める大津清次さん(58)だ。小学生の頃に親が離農した大津さんは、20歳で独自に運送業を立ち上げ、みかんなどを運ぶ仕事をしていた。顧客の1人であった片山さんに、無茶々園で働くよう誘われ、「専務にしてくれるなら」と引き受ける。
「やるならそれくらいの覚悟が必要だと思っていました」
と、大津さん。まだ事業の組織化が十分に進んでいない中、最初の数年間はあらゆる仕事をこなさなければならず大変だったが、片山さんたちと共に、無茶々園がほかの地域や人々とつながり成長していくプロセスに関わることは、楽しかったと振り返る。
「地元のためやから。でも、片山さんの言っていることは最初、何それ? という感じだった。今になってようやく、“先を読んでいた”とわかりました」
こうして無茶々園は、1989年、農事組合法人となる。

株式会社地域法人「無茶々園」の代表取締役・大津清次さん。福祉法人や明浜の第三セクターなど、様々な事業体のトップを務める。次世代の主体性を育てるために、「できるだけ任せる」ことを心がける。撮影:篠田有史
自立したコミュニティを築く(1)山と海の連携
1990年代、無茶々園は、町の様々な生産者との連携を進めていく。片山さんは言う。
「そもそも農村は自給できなければ成り立たない。いろんなことをしよらんとダメ」
畑で食料を生産し、海で魚を獲って売り、山で薪を集めてエネルギーとし、女性たちは機織りをして反物を換金する。昔はそうしてほぼ自給自足の生活が成り立っていた。田舎で自立したコミュニティを築くには、いろいろな事業が存在し、それらが連携することが不可欠だと、片山さんは考える。
1991年、台風19号による塩害で、みかんの木に壊滅的な被害が出たことも、その連携を後押しすることになった。海塩を多量に含んだ強風が吹き寄せたせいで、多くのみかんの木が枯れてしまい、収穫量を取り戻すには10年近い歳月がかかるため、減収を補う必要があったからだ。
そこで地元にあるちりめんじゃこや真珠の生産者にも参画してもらい、山と海の生産者が連携して、地域経済の安定と環境保全に取り組むことにする。まず、地元の網元「祇園丸」と提携し、明浜産のちりめんじゃこの販売を開始。その後、やはり地元の「佐藤真珠」の真珠も商品のラインナップに入れた。
祇園丸の佐藤吉彦さん(66)と息子の哲三郎さん(37)は、無添加と(旨みが増す)天日干しにこだわる自社生産で、ちりめんじゃこを作っている。吉彦さんは言う。
「ほかの業者に任せると、加工途中でいろんな添加物を入れられてしまうのが悔しくて、すべて自分で責任を持ってやりたいと思いました」
祇園丸のちりめんじゃこには、山椒や大根葉、青のりが入ったものもあり、それらの材料は皆、無茶々園の仲間が生産したものだ。
「無茶々園の輪の中にいると、海のものと山のものを使って、安心安全な商品が作れる」
と、哲三郎さん。父子は、「多くの人と出会い、支え合えることが財産」と、微笑む。

祇園丸のちりめんは、吉彦さんのこだわりで無添加・無漂白のものを、自社で選別する。一度選別した後、再び山に戻し、作業員の位置をずらしてもう一度選別を行う。小エビなどのアレルギー物質やゴミが紛れ込まないようにするためだ。撮影:篠田有史
佐藤真珠の佐藤和文さん(43)は、真珠の養殖から加工まですべて自前で行っている。高校卒業後、すぐに家業を継ぐのが嫌で大学へ進学して経営学を学んだが、大手真珠会社で3年働いた後に真珠鑑定士の資格を取り、大津さんの誘いで無茶々園に入った。
「最初は、みかんの仕事ばかりさせられていました」
そう笑う佐藤さんは、真珠を作るアコヤ貝の減少により、実家・佐藤真珠が危機に陥ったことを受け、真珠生産にも携わるようになる。アコヤ貝の減少は海の環境がもとに戻らない限り止めることができないと感じ、2020年から新たに始めたのが、「すじ青のり」の陸上養殖だ。
環境変化のせいで、すじ青のりも海での養殖が難しくなる中、隣県にある高知大学が陸の養殖槽で育てる技術を開発。それを教わるために、佐藤さんは毎週、片道4時間かけて大学の研究室に通い、半年で技術を習得する。それと同時に、思い切った投資で養殖設備を整えた。今では1年に1トンのすじ青のりが生産できるまでに。それは祇園丸の「ちりめん青のり」にも使われている。
「乾燥青のりを1トン作ると、二酸化炭素も1トン固定化することができるんですよ」
と、佐藤さん。顕微鏡やビーカー、シャーレなどに囲まれての作業は楽しそうだ。
「無茶々園という販路があるからこそ、新しい挑戦ができるんです」

