BUCK−TICK・あっちゃん、X JAPAN・HEATHの死から我がバンギャ人生と90年代を振り返る
雨宮処凛(作家、活動家)
2023年10月24日、BUCK−TICKのボーカル・櫻井敦司氏(愛称・あっちゃん)の急死が報じられた。享年57。
あっちゃんの死。それは現在48歳バンギャの私にとって、とてつもなく大きなものだった。
まずここで断っておきたいのは、私はBUCK−TICKは好きだったものの、一筋ではなかったということ。これはBUCK−TICKファンの方々に失礼にならないようにまず言っておきたい。
が、昨年、約30年ぶりにコンサートに行っていた。同世代でヴィジュアル系好きの友人(時々最近のV系ライヴにともに参戦する仲。BUCK−TICKファン歴あり)と、「我々は一度この辺で原点に戻るべきでは?」ということになり、馳せ参じたのだ。
約30年ぶりに生で観たあっちゃんは5億倍くらい「魔王」感が増していて、「我らのあっちゃん永遠なり」と心に刻んだ。来年も、またその次も、年に1回くらい観に行こう。友人とそんな話をしたことを覚えている。同時期に売れたバンドが解散したり活動休止したりする中、36年間、メンバーも変わらずに活動を続けるBUCK−TICKだから、こっちがその気になれば、そしてチケットさえ取れればいつだって行けると思ってた。それがどれだけの奇跡の積み重ねの上で成り立っていたのか、今、痛感している。
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あっちゃんの訃報を受けた数日後、その友人と落ち合い、赤ワインで献杯した。あっちゃんのことを語りながらボトルを飲み干して向かったのはカラオケで、JOY SOUNDの「MAX GO」に入っている近年のBUCK−TICKライヴ映像(もちろん本人が歌っている)を深夜まで視聴した。
それからもずっと、あっちゃんのことを考え、SNSで流れてくるあっちゃんの写真や映像を眺めている。何か大いなる時代が終わったような、ひとつの壮大な宇宙が消滅したような、櫻井敦司の死は、彼を通った人にとって他では埋めようのない喪失を与えている。
私がBUCK−TICKを知ったのは1980年代終わりの中学生の頃。きっかけはもちろん、「重低音がバクチクする」という、あのラジカセのコマーシャルだった。とにかく顔が良すぎるボーカルと動きのおかしいギター、その2人がステージ上で絡むという、中学生には刺激が強すぎ、しかし、一度ハマったら抜けられない沼にあっという間に落ちていた。
すぐにライヴの様子やMVが収録されたVHSを購入し、自宅リビングでテープが擦り切れるほど鑑賞(うちにはリビングにしかテレビがなかった)。おばあちゃんはうちに訪ねて来るたびに「また外人さん観てるのかい?」と声をかけてきたのだった。北海道の田舎のおばあちゃんに、櫻井敦司は「外人さん」にしか見えなかったのである。群馬県出身なのに。
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さて、そんなあっちゃんは、当時のバンド好きな女子・男子にとって、「性のめざめ」的な存在だったと私は思っている。「あっちゃんに抱かれたい」と公言する少女たちは山ほどいたし、男子の中にもその願望を口にする者は少なくなかった。とにかくステージングがエロい。曲も歌詞も何もかもが10代には刺激が強すぎて、40代の私が今観ても「これ、10代が観ちゃダメなやつ!」と叫びたくなるほどだ。それほどにあっちゃんはセクシーで、田舎の処女・童貞にとっては「性の黒船」そのものであった。長い黒髪、整った顔、甘い歌声、翳りのある表情。今思っても、少女漫画の登場人物(主人公ではないのだが、読者に絶大な人気を誇る美形キャラ)そのものだった。
そんなあっちゃんの死を知った13日後、信じられない訃報がもたらされた。
それはX JAPANのベース・HEATHの死。死因は大腸ガン。享年55 。
HEATHはTAIJI脱退に伴い、92年、X JAPANに加入。この頃私は高校生だったのだが、これより少し前、BUCK−TICKからX JAPANに流れるという「裏切り」行為を働いている。
何しろ当時はYOSHIKI率いるX JAPANの勢いが絶頂だった頃。クラスの男子たちもこぞってBUCK−TICKからX JAPANに乗り換え、「BUCK−TICKなんて暗い」と突然のたまい始めたのだ。当然BUCK−TICKに留まり続ける人もいたが(そしてそのような人はその後、比較的堅実な人生を歩んだ気がする)、このようなBUCK−TICK・X JAPAN戦争、90年代はじめの全国の中高生の間で勃発していたはずである。
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で、この頃のX JAPAN周辺の勢いはほんとにすごかった。92年にはYOSHIKIが立ち上げたエクスタシーレコードの面々が集う「エクスタシーサミット」が武道館と大阪城ホールで開催されるなど話題を独占。そうしてエクスタシーレコード 所属のZI:KILLやLUNA SEAが人気を博す頃には、完全にそちらの世界にハマっていた。何しろ、X JAPANを好きになると次から次へと芋づる式に新しいバンドと出会うことになるのだ。
当時、X JAPANが掲げていたのは「Psychedelic Violence Crime of Visual Shock(サイケデリック バイオレンス クライム オブ ヴィジュアルショック)」という言葉。
ここから「ヴィジュアル系」という言葉が生まれたと言われるのだが、この頃から私はヴィジュアル系の世界により深く、ハマっていく。バスで2時間近くかけて札幌のライヴハウスに通うようになり、ヴィジュアル系ならなんでも好きという状態に。これには理由があった。北海道在住だったため、ヴィジュアル系バンドはたまにしか来ないのである。よって全国ツアーの日程に北海道を入れてくれたヴィジュアル系バンドを軒並み好きにならなければバンギャ活動などできなかったのである。
そうして18歳で上京。一人暮らしを始めた私はさらにライヴに行きまくり、よりマイナーなバンドに流れていく。そっちの方がメンバーとの距離感が近いから楽しくなってしまったのだ。
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だけど、そんな中でもBUCK−TICKの新譜が出れば必ず買い、どんどん独自の世界を極めていく唯一無二感に圧倒されていたし、X JAPANの動向は常に大きな関心事であり続けた。
また、HEATHには勝手なシンパシーを抱いていた。なぜなら、もともとのベーシストだったTAIJIは92年はじめ、東京ドーム3DAYSを最後にX JAPANを脱退。X JAPANはこの時、ベーシストを一般公募したのだが、高校生だった私は本気で応募を考えたからである(ベースなんか弾いたことないのに)。このエピソードからも私がどれだけヤバめなファンだったかご理解頂けると思うのだが、そんな私にとって、HEATHはいわば、「私の代わりにステージに立ってくれている人」だったのだ(この認知も相当ヤバいという自覚はあるのでご安心ください)。
だからこそ、HEATHのプレッシャーを常に我がことのように感じていた。なぜなら、あれだけの天才が揃ったモンスターバンドに、絶大な人気を誇ったTAIJIの後釜として加入するわけである。しかも、最初のコンサートが東京ドームで最初のテレビ出演が紅白歌合戦(YOSHIKIの11月11日のXポストより)。こんなプレッシャーを経験した人が、有史以来存在するであろうか? しかもX JAPANには思い入れ強めのファンしかいない。
そんな中、HEATHは常に、それを微塵も感じさせないクールなベーシストでい続けた。
そうしてHEATH加入から6年後、X JAPANのギター・hideが死去。
ひとつの時代が終わりを告げた。私のバンギャ人生にも一度幕が引かれたのがこの頃だ。
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それから2年後の2000年、私は物書きとしてデビュー。以降、自分のことで精一杯で、ヴィジュアル系の世界からは遠ざかっていた。
しかし、09年、ライヴハウスに返り咲く。きっかけは、06年に出版した小説『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社、2006年10月)だ。自身のバンギャ時代をモデルとした小説を書いたことでバンギャ熱が再燃、ライヴに通うようになったのだ。と言っても、自分がハマった頃のバンドではない。この頃勢いのあった若いバンドたちである(ヴィジュアル系は1990年代後半で死に絶えたと勘違いしている方も多いが、あれから現在まで、多くのバンドが頑張っていることは強調したい)。
出戻ってまず驚いたのが、アーティストたちが「ヴィジュアル系に誇りを持っている」ということだった。