病まずに何かを続ける秘訣〜「師匠」の死から学んだ数々のこと
雨宮処凛(作家、活動家)
突然だが、今年は私が物書きとしてデビューして23年。
25歳から書くこと一本で食べてきて、気がつけば4半世紀近くなっている。
といってもこの業界には「50年選手」なんかがゴロゴロいるので大したことではないかもしれないが、それでもたまに「どうしてメンタルを病んだりせずに今の仕事を続けていられるのか」と聞かれる。質問する人は同業者のこともあれば、まったく別の業界ということもある。
そんなことを聞かれるたびに思い出すのが鶴見済(つるみ・わたる)著『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年)という本だ。
あの本の「はじめに」には、最後に「ANGEL DUST」という小見出しがある。エンジェル・ダスト。それは「強烈なドラッグ」らしく、著者の知人にはそれを金属のカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いてる人がいるらしい。その人は、「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」と、定職につかずにぶらぶら気楽に暮らしているそうだ。
「この本が、その金属のカプセルみたいなものになればいい」
これが「はじめに」の最後の一文。「いざとなれば自殺すればいい」と思うことでなんとか生きられるというのがこの本の裏テーマなわけだが、まさに私もそれを実践しているというわけだ。
いや、「自殺すればいい」と思っているのではない。「いざとなればいつでもやめればいい」。そう思っているということだ。究極、今日「やーめた」と言って逃げてもいい。それくらいの気持ちでないと、到底病まずに続けて来られなかっただろうとつくづく思う。
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「いつでもやめる」を担保するために気をつけていることはいくつかある。
例えば人を雇わないこと。
23年続けてきて、スタッフ的な人を雇ったことは一度もない。基本的に全部自分。単発的に手伝ってもらうことや、「この件に関してはこの人に任せていて、その都度もしくは定期的にギャラを払う」みたいなことはあるが、私一人で完結するような体制を守ってきた。
それはひとえに「誰かを雇うと、その人の生活を考えてやめられない」ことになりかねないからだ。そうなると、一気に「死」が近くなる。本当は苦痛で仕方ないのに「責任感」ゆえやめられないという状況は、多くの過労自殺の背景にもあるものだ。だからこそ、最初からそれを負わない。もともとすぐに「死にたい」とか思う方だ。そんな自分の弱さと「人に悪く思われたくない」自分の小賢しさなんかを熟知しているので、このような体制を作っている。そういう人間が「責任感」を持つことは自爆行為だし、何より自分を一番信用していないゆえのノウハウだ。
なんらかの「役員」とかからも巧妙に逃げてきた。
例えば私は貧困問題の解決を目指す活動を17年にわたって続けてきたのだが、周りにはNPOや一般社団法人などの役員的な立場の人も多い。で、私も活動柄、そういうものの役員などにたまに誘われるのだが(無給)、とにかく責任が発生しそうなものはいろいろ言い訳をつけて逃げている。それは、何もかもが嫌になって逃亡というその時、「自分がやめるとあの団体に迷惑がかかるのでは」ということが足かせになってしまうのが嫌だからだ。最初から迷惑がかからないように引き受けない。ちなみにいろんな活動の共同代表とかにはなっているが、基本的に実務的な責任は負わないタイプのものである。
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ちなみに私は30代なかばまでゴスロリ、ロリータと呼ばれる格好をしていたのだが、これは「責任ある立場を回避する」のに絶大な効果を発揮していた。「非常識な服装をしている」というだけで、自動的に責任ある立場から逃れられるのだ。もともとはそういう服装が好きで着ていたのだが、途中から「このおかげで面倒な立場が回ってこない」というメリットに気づき、あえて続けていた時期がある。ビジネスゴスロリならぬ、責任逃れゴスロリである。
話を戻そう。もうひとつ重要なのは、「ローンを組まない」ことだろう。そもそも賃貸物件の入居審査さえ落ちる不安定なフリーランス。よって望もうともおそらくローンなど組めないのだが、もし組めたとしても手は出さない方がいいと思っている。
なぜなら、ローンを返済するために苦痛な仕事にしがみつかざるを得ない状況が予想されるからだ。
同様の理由から、私には扶養家族はいない。これが結婚してたり子どもがいたりすると「子どもを育てなければ」という究極の責任が生まれる。が、いつ死んでも、いついなくなってもいい人間になることにより、逆説的に私の生存確率は爆上がりした。もちろん、「守る者がある」ことで生存確率が上がる人もいるので本当に人それぞれだ。が、私はとにかく小心者、人に迷惑をかけることを恐怖とすら捉えているところがあるので、このような体制にすることで活動を続けられているわけである。このスタイルが、自分の特性に合っているのだ。
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もうひとつ重要なこととして、「自分への期待値を極限まで下げる」というものがある。どんな業界でも、上を見ればキリがない。特に近しい人がベストセラー連発、なんてのを見ると「私なんて……」という気持ちが頭をもたげる。そういう悔しさはバネになる場合もあるが、有害でもある。
で、私は自分のメンタルを守ることを最優先させているのでそのような情報は見なかったことにし、自分については「心臓が動いている」だけで良しとしている。その上、呼吸までしているのだ。1日寝そべっているだけだとしても、内臓は食べ物を消化したり血液を循環させたりと忙しく働いている。臓器が動いてるだけで自分を肯定できるようになると、人生が随分楽になった。たまに「今日は指毛を抜いただけで1日が終わったな」なんて日もあるが、私くらいのレベルになると「指毛を抜いたなんてすごい」と自分を絶賛できるようになる。基本的に誰も自分を褒めてくれないんだから自分で自分を褒めるしかないのだ。それなのにある時期まで、誰も褒めてくれない上に自分で自分を責めていたのだからこれは辛いに決まってる。そうして自らを責めるのは自分へ高いハードルを課しているからだと気づき、自己肯定のハードルを地に落としたところ、非常に生きやすくなったのである。
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さて、こんなふうなやり方で今の仕事をなんとか続けているのだが、何がきっかけになったのか、私は理解していなかった。しかし、この原稿を書くにあたっていろいろ考え、気づいた。それは私の師匠的な存在である、故・見沢知廉(みさわ・ちれん)氏の影響だと。
ちなみに見沢知廉氏とは1990年代後半から2000年代にかけて活躍した作家。1959年生まれ。10代の頃から左翼活動に参加するも、20代前半で右翼に転向し、新右翼の統一戦線義勇軍にてイギリス大使館火炎瓶ゲリラ事件やスパイ粛清事件(殺人事件)を起こして12年の獄中生活を送る。獄中で執筆した小説が新日本文学賞の佳作となったことをきっかけに、出所後、作家デビュー。96年に出版された獄中手記の『囚人狂時代』(ザ・マサダ、1996年/新潮社、98年)はベストセラーとなり、97年に発表した『調律の帝国』(新潮社、1997年)は三島賞候補になるなど目覚ましい活躍をしていた。
しかし、2005年、マンション8階から飛び降りて死亡。享年46。
そんな見沢さんとの出会いは1990年代後半、彼のイベントに行ったことがきっかけだ。もともと一読者だったのだが、当時の私が生きづらくてリストカットしていることなどを話すと「生きづらい奴は革命家になるしかない」と極端なことを言って私に「右翼・左翼についての英才教育」を施し、そのまま右翼団体にブチ込み(2年で脱退)、物書きとなるきっかけを作ってくれた人である。
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そんな見沢さんは晩年、どんどん心を病んでいくのだが、その背景にあったのは「命懸けで文学と格闘したこと」だと私は思っている。自らの「殺人犯」という汚名をそそぐには、大きな文学賞を取るしかないという狂気のような渇望。そのため、ある純文学誌に掲載する小説を、編集者に指摘されるまま何十回、何百回と書き直していた。このことは死後、「それが見沢さんを追い詰めたのでは」と言われたが、詳細はわからない。また、12年にわたる獄中生活が彼の心身を蝕んでいたということも大きい。特に獄中でハンストし、八王子医療刑務所に入れられて薬漬けにされたという経験は心身に大きなダメージを残していた。