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常識を疑え!

「生きづらさ」と「生まれてこなければ良かった」~「反出生主義」は何を伝えようとしているのか

香山リカ(医師)

 哲学者・森岡正博氏の新著『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房)が話題だ。
 これは最近、主に哲学の世界で注目されている「反出生主義(Antinatalism)」に光をあて、その源流を古代ギリシアやインドにまで遡って求めつつ、ショーペンハウアーやシオランなどの反出生主義的な西洋哲学の系譜をたどり、さらに現代の問題を論じるという労作だ。
 では、ここで言われる反出生主義とは何か。狭義では「子どもを持たない立場」だが、この概念が注目されるきっかけを作ったともいえる南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターは、2006年に出した著書『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』(邦訳版は、小島和男他訳、すずさわ書店、2017年)でさらに議論の射程を拡大し、誕生害悪論、まさに「生まれてこない方が良かった」という論を主張する。しかも、ベネターは、そうやって「産まない」「生まれない」の果てに、人類が絶滅する日が来ることも“歓迎”しているようだ。
 では、なぜこの反出生主義がいま世界的に注目されているのだろうか。
 森岡氏は、「Business Insider」で牧内昇平氏のインタビューに答えてこう述べている。その記事「私たちは『生まれてこないほうが良かったのか?』 哲学者・森岡正博氏が『反出生主義』を新著で扱う理由」(2020年10月21日)から引用させてもらおう。

「ネット上では、反出生主義に共感する理由として『社会状況の悪化』を言っている人が一定割合います。格差社会、弱者を使い捨てるような社会の中に新たに命を生み出したくない、自分の子どもがそういうところに巻き込まれるのは見たくない、ということです。
もう一つが『環境問題』です。地球環境が悪化している中に子どもを新たにつくるのは無責任ではないか、ということ。特に英語圏のニュースを読んでいると、環境問題と反出生主義とのつながりが注目されています。」

 つまり、何らかの良くない外的要因が、「産みたくない」「生まれなければ良かった」につながっているのではないか、ということだ。それは容易に理解できる。

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 話はやや変わるが、このところ、自殺者の増加が問題になっている。警察庁の調べ(2020年9月末速報値)によると、上半期(1~6月)は前年同期を下回っていたが、7月に前年を上回り、8月と9月はさらに増加している。具体的な数字を記すと、7月は1818人(前年同月比25人増)と増加に転じ、8月には1854人(同251人増)、9月は1805人(同143人増)となっている。自殺者数は依然として男性の方が多いが、7月以降、女性では20歳未満から60歳以上まですべての年齢で自殺率が上昇しているのが目を引く。
 原因の分析はまだできていないが、誰もが考えるのが「新型コロナウイルス感染拡大の影響」だ。とくに女性は非正規雇用で働く人の割合が男性より高く、コロナ不況で仕事を失ったり収入が激減したりしやすい。また、子どもの休校や授業のオンライン化、夫のテレワークなどで結果的に家事が増え、ストレスを抱える女性も多いだろう。

 これは私の診察室での経験なのだが、緊急事態宣言が続いていた頃は「とにかく感染を避けなければ」と高い緊張状態が続き、ほかのことを考えられなくなった人が少なくなかった。「先生、うつ病が治ったみたいです。それどころじゃないですからね」とややテンションが上がりぎみの人さえいた。しかし、宣言が解除された後も感染者が増加したり一定数より減らなかったりと事態が長期化する中で、「いったいいつまでこの状況が」と不安になり、心身に強い疲労を感じるようになった人が診察室にやってきはじめたのは、むしろ夏以降のことであった。中には「もう生きるのにも疲れました」と希死念慮(自殺願望のこと)を口にする人もいた。「7月以降の自殺者の増加」は、その私の経験とも矛盾しない。
 これらは、まさに新型コロナウイルス感染症がもたらした外的要因であり、その結果としてのメンタルヘルス不調や希死念慮といえる。

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 実は、冒頭で述べた反出生主義は「産まない」「生まれない」を軸とはするが、積極的に自殺を肯定し主張する論者は少ない。人類の絶滅も視野に入れているベネターでさえ、「死」は「完全に意味のない生と比較すれば、いくぶんまし」と述べるにとどまるため、森岡氏は「(ベネターの)誕生害悪論は、その毒性も含めて独自の輝きを誇っているが、自殺消極肯定論はそれに比べると世間知の範囲内での議論だと言えるだろう」と書く(前掲書)。
 ただ、それでも「生まれない方が良かった」から「生きているのを中断したい」への移行のハードルは、それほど高くないはずだ。実際に古今東西の文人などの中には、いまでいえば反出生主義にカテゴライズされるような作品を残し、自死を遂げた人も少なからずいる。
 そして先ほどの森岡氏のインタビューの引用からもわかるように、このところ反出生主義が注目されている理由のひとつには、社会や環境などの「外的要因の悪化」もある。だとするとなおのこと、それと夏以降の日本で起きている自殺者の増加とは連動しているとも考えられる。

 しかし、本当の問題はその先だ。日本の自殺対策を牽引するひとりである「いのち支える自殺対策推進センター」清水康之代表理事は、夏以降の自殺者の増加に「芸能人自殺報道の影響」があると指摘する(「人気俳優の自殺報道『とりわけ若い人に影響』 直後に『自殺者』増加の背景」、弁護士ドットコム)。清水代表理事の言葉を紹介しよう。

「自殺問題に関わり20年ほどになるが、ここまで芸能人の自殺が相次いだのは記憶にない。自殺報道がとりわけ若い人たちに影響があることが分かってきたので、芸能人の自殺対策についても何かできないか検討している」

 たしかに診察室でも、芸能人の自殺が報じられるたびに「ショックを受けました」という声を聴く。中には「私も、とつい考える」という人さえいる。そのほとんどは女性だ。では、彼女たちは自殺した俳優やミュージシャンのファンだったのかというと、そうでもなさそうだ。ある人がこう言っていた。
「とくに好きだったわけでもなく、ただテレビでよく見るな、というくらいでした。でも、多くの人を楽しませてきた俳優さんですよね。お金もあっただろうし、家族にも恵まれていたと聞きます。そんな人さえ死んじゃうのに、私なんかたいしたこともできないのに、こうして生きている意味ないですよね。何のために生きてるのかな、と考えるとむなしくなって、死ぬことばかり考えるんです」

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 何のために生きているのか。生きている意味とは何か。
 精神科医にとって最も答えにくい問いだ。日本自殺予防学会の理事長を務める精神科医の張賢徳氏は、9月28日、学会のホームページで「自殺しないでください」という緊急提言を発表した(「最近の自殺の報道に関する緊急提言」)。芸能人の自殺報道などにも触れ、張理事長はこう訴える。

「他人の自殺の一面だけを見て、『じゃあ、私も』と一線を越えてしまうのは絶対によくありません。死んでしまったら、もうこの世には戻ってこれません。遺された人たちも一生苦しみます。」

 そして、「あきらめないで相談してください」と身近な人や専門機関への相談を呼びかけるのだ。これほど力強く「死なないで」というメッセージを発する張医師だが、結末部分ではややトーンが変わる。

「『なぜ生きないといけないのか』と患者さんから問われて答えに窮することがあります。私は精神科医ですが、精神医学がそれに対する答えを持ち合わせていないのです。」

 それは、「哲学や宗教の問題だと思います」と張医師は言う。そのあとには再び、「ただ、絶対に一つ言えることは、自殺しないですむ方策が必ず見つかる」として提言を結ぶのだが、「なぜ生きないといけないのか」という問いへの答えは精神医学にはない、という率直な表明が強く私の心に残った。

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 では、哲学はどう「生きる意味」に答えるのかと見わたすと、今回、紹介したような反出生主義がブームのようになり、「生まれない方が良かった」としているのである。「いや、それは外的要因の悪化がひどいからだろう。コロナ、貧富の格差、虐待、環境問題などが少しでも改善すれば、反出生主義もトーンダウンするはず」と言う人もいると思うが、そうなのだろうか。
 実は、森岡氏は先のインタビューでこんなことを言っているのだ。

「ただ、考えなければならないのは、貧困でもなく、差別も受けず、家庭環境も円満なのに、反出生主義の考え方をもつ人はいるということです。
もし魔法のようなものでその人が抱える外的要因が全部解決したとする。そうしたら『生まれてこなければよかった』とか、『子どもを産まない』とか思わなくなるのかといえば、そうではない。この点は多くの人の直観に反することかもしれません。」

 インタビュアーの牧内氏もそのあとにこう打ち明け、対話が続く。

「――確かに、さしあたり自分の人生に不満はなくても、『反出生主義』に共感する人がいますね。取材時の驚きの一つでした。条件付きの『こんな人生なら生まれてこなければよかった』ではなくて、本質的に『生きる価値』について疑いの目を向ける人がいる、ということですか」(牧内氏)
「そういうことです。実はこの問いに、多くの人がなんとなく気づいているんじゃないのか、という気がしています。これは実は多くの人が抱えている、『真正の哲学的問題』である可能性があります。」(森岡氏)

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著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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