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常識を疑え!

自殺やうつ病の経済損失はなぜ大きいのか?

香山リカ(医師)

 2010年9月7日、厚生労働省は自殺やうつ病での休職、失業などによる09年の経済的損失額が、推計で約2.7兆円にも上るという調査結果を、政府の「自殺総合対策会議」で報告した。

 この結果を見て、「なぜそんな多額になるの?」と疑問を抱いた人、あるいは「人間の命の問題をお金に換算するなんて不謹慎だ」と憤りを感じた人もいるのではないだろうか。

 ここで、この損失額がどういう計算に基づいて出たものなのか、簡単に説明しておこう。

 まず、09年に自殺で亡くなった15歳から69歳までの人が、もし亡くならずに働き続けた場合に得られるはずだった生涯所得額を計算する。それから、うつ病患者数をもとにした休業にともなう所得の損失額や生活保護の支給額、医療費などを計算する。それらの合計が2.7兆円というわけだ。

 では、この数字は何を目的に公表されたのか。

 ひとつには、一般の人たちに、これまでとは別の角度から自殺やうつ病の問題の深刻さを感じとってもらうためだ。自殺者3万人、うつ病100万人、といった数字を聞かされてもどこか他人事でも、「経済的損失2.7兆円」と聞いてはじめて、「そんなになるの」とリアリティーを感じることができる人がいるはずだ。

 それから、もうひとつ。政治家、行政担当者、そして企業の経営者や人事担当者などの中には、今日に至ってもなお、自殺対策や職場の労働状況や環境の改善、メンタルヘルス対策に二の足を踏む人たちがいる。ある中小企業の経営者が、こう語るのを聞いたことがある。

「日本社会全体のためにも、ウチのような企業がまずやるべきは、業績を上げて景気回復を促進すること。だから、うつ病対策なんかにお金をかけてはいられない。残業させるな、ゆとりを大切に、なんて言われても、そんな余裕はないんだよ。どんどん働いて稼いでもらわなければ、会社も社員も共倒れだ」

 そう言いたくなる気持ちもわかるが、そうやって「もっと働け、効率、生産性をどんどん上げろ」とプレッシャーをかけられた従業員たちがどんどんうつ病になり、休業、退職となっていったら、どうだろう。結局は、損失が大きくなって、業績は上がらないということになる。さらに自殺者が出て、家族から労災を申請されたり裁判になったりしたら、それに対応するための心理的、経済的エネルギーも相当なものになる。

 それよりは、たとえ短期的に見れば出費が多くなり、直接の利益には結びつかないにしても、企業内のメンタルヘルス対策をきちんと講じておいたほうが、長期的には“お得”ということになるはずだ。おそらく、こういった主張に「それなら」と動いてくれる経営者もいるのではないだろうか。

 もちろん、これは一企業にとどまることではなく、社会全体を見わたした場合も同じだ。病気で休んでいる人が多くなってきたからといって、「なるべく休むな」と言ったり、残っている人に「休んだ人の分までがんばれ」とけしかけたりしても、長期的には日本にとって何のメリットもない。国が生き残り、余計な損失を防ぐためにも、ここで本腰を入れて自殺対策、うつ病対策をすべきなのではないか。今回の試算からそのことに気づく人が増えれば、政治や行政が動きやすくなるだろう、というのも数字の公表の目的になっているはずだ。

 日本の経済を活性化するためにも、これ以上、うつ病や自殺者を増やしてはならない。今回の発表が世間でどう受け止められ、何が変わるのかを見届けたい。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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