冤罪ものドキュメンタリーを制作する「覚悟」とは~ 映画『マミー』評
里見繁(関西大学名誉教授)
里見繁はかつて毎日放送で「冤罪ディレクター」と呼ばれていたドキュメンタリーの作り手である。布川事件や足利事件など、日本各地で起こった冤罪事件の現場に飛び、弁護団や再審の請求人への取材は言うに及ばず、裁判記録やアリバイ周りの調査に関係者への直接取材など、地道な調査報道を続けてきた。豊富な取材経験に裏打ちされたドキュメンタリー番組は、常に捜査機関の暴走や裁判の誤審を怜悧に監視する視座を持ち、書面や法廷だけでは分からない真実をあぶり出してきた。
和歌山毒物カレー事件を扱ったドキュメンタリー映画『マミー』(二村真弘〈にむら・まさひろ〉監督、2024年)が話題の今、同作を通して「冤罪ものドキュメンタリー」について論じてもらった。
*本記事には映画『マミー』の内容が含まれます(編集部)
映画『マミー』とは
映画『マミー』を観た。試写会で観て、この原稿を書くにあたってもう一度、劇場で観た。観終わった時に、何かが足りないという印象を拭えなかった。二度観て、二度とも同じ印象を抱いた。そこが本稿の核になる。
本論に入る前に、映画の梗概を紹介する。
1998年の夏に発生した、いわゆる「和歌山毒物カレー事件」が題材だ。地区内のお祭りで住民にカレーライスが振る舞われたが、その中に何者かが猛毒の亜ヒ酸(ヒ素)を入れたため、67人が急性中毒で病院に搬送され、4人が亡くなった。警察は近所に住む林眞須美さんを犯人として逮捕、その後2009年に最高裁で死刑が確定したが、眞須美さんは冤罪を主張し、再審請求を申し立てている。
この事件については、発生直後からマスメディアが現場に押しかけ、マッチポンプのように騒動を過熱させた。一人の女性が逮捕され、死刑判決が言い渡された。これで一件落着、誰もが冷めたようにカメラを置いてしまった。ずっと以前から「冤罪」の声が聞こえていたのに、取材者たちは動こうとしなかった。四半世紀を経て、遅れてきた若き作り手がテレビではない世界で、これを告発した。それが映画『マミー』である。
『マミー』は、眞須美さんの夫の健治さんとその長男のインタビューを中心に展開する。二人とも、眞須美さんの無実を信じていると語る。それが通奏低音となって全編を支配している。「冤罪」のドキュメンタリーではあるが、裁判の争点を逐一紹介して観る人に判断を迫る、という構成ではない。しかし、現場での目撃証言、カレーから採取された毒物の鑑定など、有罪の根拠となった論点については、詳細に反論を試みている。
「無罪の証明」と、娑婆(しゃば)で一人暮らしを続ける男たちの「寂しい日々」が絡み合うようにして物語は進んでいく。コンビニの弁当を箸でつつく孤独なカットが、彼らの日常をほぼ語りつくしている。それが余計に、そこにいない林眞須美という女性の存在の大きさを際立たせる。
監督の二村真弘は、テレビで実績を積んで初めて映画に取り組んだという。導入と終わりにドローンを使い、「ノーナレ(ナレーション無し)」のスタイルである。流行の手法と言っていい。編集のテンポもいい。ただし、スクープ(とチラシに書かれていた)というような目新しい情報はない。観終わった人が冤罪だと納得するかどうかは分からないが、弁護団の主張を忠実になぞり、映像化している。

映画『マミー』パンフレット
「足りない」ものは何か?
何が「足りない」と思ったか、それをまず語りたい。
「言葉」が足りない。厳密には「本音」「真情」がこの映画の中で吐露された場面があったのかな、という疑問を抱いた。眞須美さんの日記が本編中に何度か朗読された。さりげない中にも人を引き付ける力を持った言葉だと思った。だが、これは本音ですか、と聞きたかった。貴方には、もっと激しい部分があるはずだ。獄中の日々はそれほど穏やかには過ぎていかないはずだ。
そう考えながら、夫の声を聴き、長男の声を聴いていくと、一見率直な物言いの中に、ここにも冷静な防御と自己韜晦(とうかい)の姿が見えてきた。だが、それは当然かもしれない。実相を知らない世間からの誹謗や中傷に晒されてきた二人だ。簡単に言葉を発するような心境にはならないはずである。結局、インタビューは延々とあるが、突き刺さるような本音には出会わなかった。
また、二人の語る「言葉」が真実か虚偽か、という生々しい問題もある。この映画は、夫と長男の「言葉」で紡がれている。特に、事件当時の事実関係については、その言葉が真実であることが、この映画が真実であることの前提となっている。夫や長男の語る言葉に嘘があれば、この映画も嘘になる。一方、死刑判決を言い渡した裁判官は、この二人の言葉のいずれについても「信用できない」と退けている。
夫の言葉は本当か、長男の言葉は本当か。裁判官の判断が間違っているのか?
これは「冤罪もの」ではない、「人情噺」に軸足を置いているのだ、と言うなら余計なお世話なのだが、この点は逃げることなく、さらに掘り下げるべきではなかったか。
裁判官と検察官の言葉はどこに?
検察の主張や裁判官の判断、その「言葉」も映画からは聞こえてこない。終盤で、監督が元検事や裁判官への直撃取材を企て、断られる場面が連続して挿入されているが、ここからは内容も意味も見出せなかった。「いい音」は録れないと分かりながら突っ込むのは、取材相手の頑なさを印象付けるためによくやる手法だが、そこで彼らが答えなかったからといって、作り手が彼らの主張を観る人に届けられなかったことの免責にはならない。
この点をあえて批判したのは、いわゆる「客観報道」に関わることだからだ。「冤罪もの」の制作にあたっては、「客観報道」つまり、争う相手の主張も正確に伝えることを心掛けなければならない。筆者自身は「客観報道なんて糞くらえ」と過去には言ってきたし、今もそう思っている。世の中にある文章、映像、表現された作品、すべては主観から発している、だから、客観報道、客観的な視点などというものは存在しない、という思いだ。だが、ドキュメンタリーというくくりの中で、その映像によって観る人を説得したいのであれば、どうしても両者の言い分を俎上(そじょう)に並べたうえで、さあどうですか、と問うことになる。
その意味では、弁護人の主張を紹介するだけでは不十分で、検察官の主張を正確に伝える手間を惜しまないことが重要だ。
刑事裁判の主戦場は法廷であり、 そこで検察官と弁護人が言葉を唯一の武器として闘う。検察官の主張は冒頭陳述から論告・求刑に至るまで、また裁判官の判断は判決文、決定文に詳細に書かれている。司法特有の回りくどい文章だが、これこそが彼らの「言葉」である。個人的には、弁護側と検察側の両論が併記された中で、この事件がどのように見えてくるのか、つまりはネット上に溢れる「公平さを無視した言説」以外の何かが見えてくるのか、その期待があったのだが……。
ドキュメンタリーの武器は「映像」と「音声」
著者情報
関西大学名誉教授
里見繁
さとみ・しげる
1951年生まれ。テレビ報道記者を経て、ドキュメンタリー番組の制作ディレクターとなる。1994年に放送された「癌を生きる~医師布施徳馬の日記から~」で95年の日本民間放送連盟賞テレビ教養部門最優秀賞を受賞したほか、2001年放送の「出所した男」で2002年の文化庁芸術祭テレビドキュメンタリー部門優秀賞などを受賞。ほかにも多数のドキュメンタリー番組を手がけた。2010年から関西大学社会学部教授、2019年から同大学名誉教授。著書に『死刑冤罪 戦後6事件をたどる』(インパクト出版会、2015年)、『冤罪 女たちのたたかい』(同、2019年)などがある。