笑いと暴力のはざまで―BPO審議入りからお笑いの今を考える
西村紗知(批評家)
"苦痛を笑う„ことは問題あり? BPOの見解が示したもの
2021年8月24日、放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会が「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」を審議の対象とすると発表した。「視聴者やBPOの中高生モニターから、出演者に痛みを伴う行為を仕掛け、それをみんなで笑うような、苦痛を笑いのネタにする各番組は、『不快に思う』、『いじめを助長する』などの意見が継続的に寄せられてきていること等を踏まえ、委員会で視聴者意見が寄せられた複数の番組を視聴した上で討論した。その結果、委員会として、青少年に与える影響の重大性に鑑み、このテーマの審議入りを決めた」(註1)ということだ。
第237回青少年委員会の議事録によると、委員からは例えば「人が痛みを感じている、それもリアリティーがあるような形で痛みを感じているのを皆で見ながら嘲笑する、冷たい笑い…冷笑をするということが青少年、とりわけ子どもの内面や子どもの社会にどういう影響を与えるのかを検討する必要がある」「安全性の面などにおいて、それなりにマイルドになってきているところがあると思う。それでも、年齢の低い青少年、特に子ども(=児童)に与える影響や気をつけなければいけないポイントについて、外部の専門家の意見も参考にして反映させるべきだ」といった意見が出されたようである。
「いじめを助長する」ことへの懸念は、痛みを与える行為を模倣することよりも、痛みを与える行為を見て笑うのを模倣することの方に重点を置くということだろうか。つまり、青少年・児童の、第三者の暴力を止めずにその場をやり過ごすメンタリティーを育んでしまいかねない、というのが懸念の実態なのかもしれない。そうだとすると、青少年・児童に真似のできないものを番組側が作ればよいだろう、というよくある反論は意味をなさないことになる。制作側が、素人に模倣できないような痛みを与える行為を創案したところで、あるいは彼らはプロの芸人なのだからオーバーリアクションをしているのだ、と説明したところで、「いじめを助長する」ことを懸念する側への応答にはならないだろう。制作側が「痛み」をもとに「笑い」を生み出そうとしている限りにおいて。
そして9月20日、日本テレビはいまや年末の風物詩となった『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!絶対に笑ってはいけないシリーズ』について、15年の節目である今年は休止すると発表した。この番組では例年、松本人志、浜田雅功、月亭方正、遠藤章造、田中直樹の5人のメンバーを笑わせる様々な仕掛けが用意されており、笑ってしまったメンバーは、その場で尻を棒や鞭で叩かれてしまう。日本テレビによるとBPOの審議とは関係なく、実際にはもっと早い段階で休止が決定されていた、とのことだ。
マスコミ各社の反応を見るにこの二つの出来事は、今日のお笑いに暴力的な表現は未だに可能かどうかという問題提起となった。のみならず、賞レースで披露されるネタがどれだけ高度に洗練されたものでも、結局のところお笑いは、「大衆との絆」という他律的な要素(人任せにせざるを得ない部分)に存在意義を左右されるものであり、危うげなバランス感覚のもとに成立している、ということを今一度思い出させた。
暴力的表現のピークは過ぎた?
筆者はこれらのニュースを聞いて意外に思った。テレビ番組で暴力的な表現が散見されるのは幾分ピークが過ぎているように思えるからだ。
もちろん「いじめを助長する」と懸念する側にとってみれば、暴力の量も質も本質的ではない。青少年と児童にそれを目にする機会が与えられているだけで問題であり続けるだろう。松本人志が、身体露出や下ネタなどのかなり際どい表現が見られる、事前に選ばれた芸人による優勝賞金1000万円をかけた密室笑わせ合いサバイバル『ドキュメンタル』シリーズの発表媒体に、地上波でなくAmazon Prime Videoを選択したのはもう5年も前のことだ。審議入りを経て打ち切りというと『めちゃ×2イケてるッ!』の「七人のしりとり侍」――これは三文字しりとりをするコーナーで、回答に失敗した者は、その場ですぐに複数人により袋叩きにあうという罰ゲームを科されるものであった――のことが思い出されるが、コント・バラエティー番組も、予算の都合なのかほとんどなくなってしまい、ジャンル自体が危機に瀕しているようにすら見える。
一方、暴力(もはや表現手段ではない)を目にすることは日常生活でなおも増えつつある。個人撮影の暴力的な動画や写真がインターネットのプラットフォームに載って拡散される。イスラム過激派組織「イスラム国」が日本人ジャーナリストを殺害したとする動画をインターネット上で公開したのが2015年のことで、最近であれば京王線刺傷事件の映像も、すぐさまツイッターに出回った。公的な報道機関ですら個人の撮影した映像・写真を使うようになって久しい。こうした深刻な暴力であっても、動画投稿の編集の意向によっては「痛みを伴うことを笑いの対象とする」よう面白おかしく見せることが可能だろう(動画でなくとも、匿名の素人による悪趣味な雑コラ画像のことを念頭に置くのでもよいだろう)。反対に、「笑いの対象」となっていても、少しでも出演者が痛みを感じているように見えさえすれば、大衆はそこに深刻な暴力が存在する可能性を見て取るだろう。番組の内容がフィクションであるのが誰から見ても自明であっても、暴力が実際に存在しているかもしれない、という大衆の想像力を制作者が消し去ることは難しい。

こうした状況でBPOの一連の動きは、ネット社会に慣れ親しんでいる青少年をどこまで守ることができるのだろうか。少なくとも、その規制が規模を問わずオンラインで発信、拡散される暴力的なコンテンツに対する圧力になるとはあまり想像できない。
加えて、暴力的な表現に対する世間一般の風潮や業界側の自主規制に率先されるかたちで、そもそもお笑いにおいては暴力的な表現も時代遅れとなりつつある。「痛みを伴うことを笑いの対象とする」こと自体すでに困難なのは、お笑い第七世代の台頭、誰も傷つかない笑いの隆盛が証左となっている。顕著なのは女性芸人の傾向だ。最近では女性芸人の「ブスいじり」や体を張る芸風はほとんど不可能になったように見える。ネタとして自らの容姿で笑いをとっていた女性芸人から一方的に表現手段だけがはく奪されているならば、表現の自由の制限という観点から見ると、心情的には複雑ではないだろうか。
たしかに、暴力的な表現の積極的な破棄がお笑いの世代論的なものを形成しつつあるのは認めざるを得ない。お笑いの業界内部において、実際には上の世代が自らやるべき暴力的な表現の破棄を、自己批判として若い世代が担わされ、若い彼らもまた露出の機会のために甘んじて引き受けているだけなのかもしれない。痛みを伴う笑いを行っていた上の世代の者は、今現在おとなしく取りやめているだけなのかもしれない。一旦暴力的な表現を取りやめる以外に反省を示す行動があるのだろうか。視聴者には思いつくはずもない。
そうして「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ことへの取り締まりも、「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ような表現も、これから一層困難となるだろう。そもそもお笑いにおいて両方とも困難だったのだ。お笑いを批判するような意見を出す側が流動的なのであって、表現する側もまた他律的なのだから。もしお笑いが一般社会の写し鏡になるのだとしたら、台本の中で描写された社会の様子にではなく、流動性と他律性の相互作用というまさにこの構造に表れるのだ。つまり、一般社会に生きる我々もまた、その都度異なる他人から出される意見に、その場その場で与するようにして生活しているということが、自覚できるだろう。
お笑いと大衆との間にかつて存在した「つながり」
著者情報
批評家
西村紗知
にしむらさち
1990年、鳥取県生まれ。東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。東京藝術大学大学院美術研究課芸術学専攻(美学)修了。「椎名林檎における母性の問題」(「すばる」2021年2月号)で「すばるクリティーク賞」を受賞しデビュー。著書に『女は見えない』。そのほかの論考に「グレン・グールドに一番近い場所」(「すばる」2021年9月号)、「お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について」(「文學界」2022年1月号)などがある。