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中島岳志+想田和弘 特別対談2――安倍首相に欠けているものとは? 世界によって自分が変えられないために、今何をすべきか?

庶民の英知。そして日常を引き受けるということ。(後編) 

想田和弘(映画作家)

中島岳志(政治学者)

(構成・文/仲藤里美)

「庶民の英知。そして日常を引き受けるということ。(前編)」からの続き。

 

中島岳志さん(左)と想田和弘さん(右)

過去を無視することは、未来を食いつぶすこと

中島 僕は、安倍首相という人に一番欠けているのは、最初に触れた「死者のまなざし」を意識する感覚だと思っています。自分を「保守」だと言っているにもかかわらず、死者に対する思い、先人へのリスペクトが全く感じられず、謙虚さというものが見られない。
 そして、これまで不文律ながら慣習やルールとして存在してきたものを、平気で打ち破る。こんなことをしたら恥ずかしいといった感覚も持たないから、公文書の書き換えなども平気でやってしまうわけです。
 集団的自衛権行使容認についての批判が高まっていた時、内閣法制局長官に外部の、行使容認派の人間を据えるという異例の人事が強行されましたが、あれも以前は「特に法律にはダメと書いていないけれど、やってはいけないこと」として保守政治家の間で共有されるコモンセンスがあったわけです。それを安倍さんは「いや、法律に書いてないでしょ?」とあっさり無視してしまう。過去に集積されてきた膨大な知に対する非常な軽視だと思います。

想田 「保守」からは一番遠い姿ですね。

中島 そのとおりです。そして、この問題が非常に重要だと僕が考える理由は、「死者のまなざし」を意識するということは、単なる過去に対する固執ではないと思うからです。
 柳田国男の著書『先祖の話』(1946年)に、それなりに財を成して安定した老後を送るひとりの老人が、これから目指すのは、いい「御先祖になる」ことだと語るエピソードが出てきます。柳田はこれにいたく感心するのですが、この老人が言っているのは、自分は未来の子孫にとっての「先祖」になるのだから、いい御先祖になるために今を良く生きなければいけないということ。つまり、「先祖」を通じて、過去・現在・未来という「縦軸」がつながっているのです。
 こういったことを、近代の日本人は忘れようとしている。それは単なる過去の冒涜(ぼうとく)ではなく未来に対する死であるというのが柳田のまなざしです。安倍首相に欠けているのはまさにこの視点ですよね。例えば、アベノミクスは完全に未来を食いつぶしている。未来からの前借りと言ってもいいと思います。

想田 中島さんのおっしゃる「縦軸」への認識がゼロなんでしょうね。
 例えば、今基地建設が問題になっている辺野古を見ても、僕なんかは単純に、あのきれいな珊瑚礁の海を埋め立てるということを想像しただけで心が痛むんです。

中島 冒涜というか、人間として「やってはいけないこと」という感覚がありますよね。

想田 あります。そして、それはまさに自分が死んだ後の未来という観念がどこかにあるからのような気がするのです。例えば、今絶滅危惧種になっている動物たちは100年後にはみな絶滅する、なんていう話を聞くと、「大変だ」と思う。100年後なんて絶対に自分は生きていないのに、強い危機感を抱くし、「社会の在り方を変えなくては」なんてことも考えるわけです。
 これは僕だけが感じることではなくかなり一般的な感覚で、言い方を変えれば倫理観とも呼ばれるものだと思うのですが、安倍首相にはなぜかその倫理観が欠如している。そして、それは安倍首相だけの問題ではないからこそ、安倍政権がこれだけ長期化しているのだろうとも思うのです。

9条改憲と、失われた社会への「信頼」

中島 それとも関連するのですが、僕と想田さんはほぼ同じタイミングで「自衛隊の活動範囲などを明確に限定するために改憲をするべきだ」という意見を表明し始めたように思います。これはなぜかといえば、社会の中で、過去の経験に基づくさまざまな「暗黙知」が共有されているということに対する信頼が崩れてきたからだと思うのです。
 これも『保守と立憲』の中で書いたことですが、憲法の主役は実は「死者」です。立憲主義とは国民が権力を縛るという考え方ですが、その「国民」とは今生きている人だけではなく、既に亡くなった人たちでもあります。過去のいろんな経験、失敗を通じて得た教訓を元に、三権分立とか、表現の自由を侵すなとか、侵略戦争をやるなとか、政府の暴走にさまざまな歯止めを掛けているのが憲法なんですね。
 この時に、かつての日本のように過去から積み重ねられてきた「暗黙知」が共有されていて、政治や社会に対しても「まあ、そこまでひどいことはしないだろう」という信頼がある社会であれば、憲法の条文は短くても構わないのです。そこに書かれていないことに対する共通の合意、いわば「行間」があると信じられるからです。
 ところが、「書かれていないことは無いのと同じ」とばかりに、どんどん勝手に解釈を重ねていく安倍首相のような政治家が現れ、「暗黙知が共有されている」という信頼が崩れた社会においては、残念ながら憲法の条文は長くせざるを得ないというのが僕の感覚です。つまり、これまでは不文律で問題なかった部分についても、非常に恥ずかしいことながら言語化して歯止めを掛けないといけないような社会になっているのが、日本の現状だと思います。

想田 僕も同じ意見です。具体的には安保法制が成立した時期に強く思ったのですが、もう今の権力者は現行の憲法では手に負えない、もっとしっかりと憲法で縛るという発想を持たなくてはならないと考えるようになりました。それまでは、自分のことを護憲派と呼ぶことに何の躊躇もなかったのですが、ここまでくると、護憲よりも立憲という発想で対抗するしかないんじゃないか、と。

中島 条文だけを見れば、9条は非常に「穴が多い」ものだと思います。自衛権の範囲も設定されていないし、自衛隊の存在も書き込まれていないし、もちろん自衛隊が何をしてはならないかも定義されていない。それでも多くの人たちが9条を手放してはならないという感覚を抱き続けてきたのは、9条が単なる法律ではなく「叫び声」みたいなものだからだと思います。もう戦争はやめよう、何か問題があっても戦争で解決するという方法は避けなくてはならない、その責任を自分たちは膨大な死者たちから背負わされているんだという感覚があり、9条を変えることはその「死者の声」を断絶させてしまうことではないかという恐れがあったのだと思うのです。
 しかし、現状に至って、その感覚や恐れすら一切を無意味にしてしまう人間が、国のトップに立ってしまった。これはもう、「立憲」ということを考え直さなければ、全てが崩壊してしまうのではないか。そう感じるようになりました。
 社会への「そんなにひどいことはしないだろう」という信頼については、想田さんもウェブ連載でのコラム などで同じように書かれていましたね。

想田 はい。牛窓での撮影中、国会では秘密保護法の審議が進んでいたのですが、周囲ではそれが全く話題になっていませんでした。それを見ていて、牛窓の人たちだけではなくこの国の多くの主権者にはベースのところに、他者や社会システムに対するある種の「信頼感」があって、だからこそ秘密保護法成立のようなめちゃくちゃなことに直面しても、特に抗うことなく静観してしまうのではないか、と感じたのです。「確かに危険な感じもするけど、日本政府はそう悪いようにはしないはずだ」とスルーしてしまうのですね。
 僕自身も、実は以前は日本のニュースはほとんどチェックもしていなかったんです。ニューヨークに住んでいるということもありますが、別に僕が何か気に掛けなくても、勝手に社会はいい方向に行くだろうという信頼感みたいなものが大きかったんですね。
 その信頼が、僕の場合は東日本大震災でガラガラッと崩れて。日本政府の対応や社会の雰囲気を見ているうちに、これはまずいなと思って、ニュースを追ったり、政治について発言したりするようになりました。

中島 本来は、そんなことをしなくていい社会が「いい社会」というものなのでしょうが……。

想田 少し前の日本のように、「暗黙知」や先人への敬意といったものが確固として共有されている社会というのは、実は非常に効率のいい社会でもあります。お互いに「こういうことはしないよね」という、口にしなくても通じるルールがあるから、あまりみんな疑心暗鬼にならずに日常生活を送れるわけです。
 例えば、海外の会社と映画の権利についてやり取りをする時も、その契約書の長さが国によって全然違うんですね。とにかく長い、分厚い契約書を出してくるのがアメリカ。事細かに書いて確認しておかないと信用できないという感覚が土台にあるのでしょう。そしてその長い契約書を作るには弁護士を雇わなくてはならないので、お金も時間もすごく掛かります。
 対照的なのが日本で、映画配給の契約書も2ページくらいしかなくて、しかもそれにさえ正式にサインしないままにどんどん上映の準備が進んでいることもある(笑)。でも、それで特に問題が起きたりしない。ある意味、とても効率がいいと言えますよね。
 もちろん、国の成り立ちの違いもありますから、契約書の厚さがそのまま倫理観の欠如や猜疑心の蔓延の表れだとは言いません。ただ、日本の場合はもともと「めったなことがなければだまさないし、だまされない」という論理で動いてきた社会だった。そこに平気で人をだます人間が、しかも国のトップやその周辺に出てきてしまったことが怖いのです。それまで「だまされる」ことに免疫が無かっただけに、社会に猜疑心が本格的に生まれてきた時に、全体が排外主義とか戦争とか極端な方向に行ってしまうのではないか、と思います。もしかしたら、もう既にそうなりつつあるのかもしれません。

世界によって自分が変えられないために

著者情報

映画作家

想田和弘

そうだ かずひろ

1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』(2007)、『精神』(08)、『Peace』(10)、『演劇1』『演劇2』(12)、『選挙2』(13)、『牡蠣工場』(15)、『港町』(18)、『ザ・ビッグハウス』(18)があり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』(20)は、第70回ベルリン国際映画祭フォーラム部門エキュメニカル審査員賞受賞、〔仮設の映画館〕にて公開中、ほか全国の映画館で順次公開。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『カメラを持て、町へ出よう』(集英社インターナショナル)、『観察する男』(ミシマ社)、『THE BIG HOUSE アメリカを撮る』(岩波書店)などが多数。

政治学者

中島岳志

なかじま たけし

1975年大阪府生まれ。専門は南アジア地域研究、近代日本政治思想。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に。『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、2005年に大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け』(新潮社)、『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)など多数。幅広い評論活動を行っている。

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