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X JAPANが世界で評価される理由

そこから見える「世界から取り残される日本」という構造

津田直士(作曲家/音楽プロデューサー/音楽家)

 2007年の再結成以来、日本人ロックアーティストとして初めて世界を席巻しているX JAPAN(1992年の海外レーベルへの移籍に伴い「X」から改名)。前人未到の世界進出を邁進する彼らの活躍を分析すると、そこには日本の音楽業界独特の事情と問題点が見えてくる。

世界的なアーティスト、X JAPAN

 今年(2017年)3月、X JAPANはロンドンのウェンブリー・アリーナ公演を成功させました。3年前の14年10月には、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を成功させ、ドラムスとピアノを担当し、作品のほとんどを手がけるリーダーのYOSHIKIは、今年の1月にアメリカのカーネギー・ホールでクラシック公演を成功させ、アジア人として初めてアメリカのロックとクラシックの二大殿堂を制覇し、今回のウェンブリー・アリーナ公演によって、X JAPANは実に三大殿堂制覇という快挙を成し遂げたことになります。
 また、2016年に完成したドキュメンタリー映画『WE ARE X』は、アカデミー賞を受賞したハリウッドの製作陣が、名手スティーヴン・キジャック監督とタッグを組んで製作され、アメリカをはじめ世界各地の20以上の映画祭で諸々の受賞を果たしたほか、アメリカ、イギリス、日本、中国などでも順次公開となり、各地で異例のロングラン上映となりました。
 X JAPANという日本のバンドが世界的な存在となったのは間違いありませんが、彼らの偉業は、日本では現状ほどポピュラーではありません。その理由は、彼らの活動拠点がアメリカで、マネジメントに携わっているのもアメリカのエージェントと、実質海外アーティストであるからでしょうか。リーダーYOSHIKIが天皇陛下御即位10年奉祝曲を演奏し、首相や財界トップ等にすらファンが多くいながら、その偉業が日本で正しく伝わらない……皮肉なことに、その理由は日本の音楽アーティストとして唯一世界で成功しつつある理由と深くつながっており、そこから科学やIT、グローバル企業など、広いジャンルで顕著になりつつある「世界から取り残される日本」という構造が浮き彫りになってくるのです。

突出した特性と魅力

 X JAPANは、X名義でインディーズ時代に一つ、CBS・ソニー~ソニー・ミュージック時代に二つ、アトランティックへ移籍してX JAPANと改名してから一つと、これまでフルアルバムについては四つをリリースし、それ以来、実に21年間、アルバムを発表していません。実に寡作なアーティストといえます。
「X JAPANのファンに初心者はいない」という表現を聞くことがあります。これは、一度彼らの魅力を知ってしまうと瞬時にのめり込み、さまざまな音源や情報を集め、一気に「コアファン」になってしまうという傾向を表したものです。
 また、1991年には当時の日本の音楽シーンでは大変珍しい、ある「奇跡」が起きています。Xのメンバーと筆者は、三つめのアルバム『Jealousy』のレコーディングでロサンゼルスに前年の秋から8カ月間滞在しました。そもそも前年、日本武道館公演を成功させた直後からアルバム創りに没頭していたため、結局、メンバーたちによる「本人稼働」のプロモーションは1年以上にわたって行われていません。にもかかわらず、アルバムを完成させて日本へ戻ると、ファンは急増し、ほぼノープロモーションのまま、帰国2カ月後に、初の東京ドーム公演を成功させています。
 これと同じ現象が時代と形を変えて、2000年代に世界で進行します。1993年以降、言葉の壁や解散などによってX JAPANが世界進出を果たすことができないままになっていた間、日本向けに制作されたはずのアルバムや作品が、インターネットによって世界中に広まり、いつしか世界中のあらゆる国で、数多くのファンを生んでいたのです。
 また、89年発売のアルバム『BLUE BLOOD』に収録された作品は、30年近く経った今も、世界中のステージで演奏されるアレンジが、基本的に当時と全く変わっていません。通常のJ-POPであれば、30年前のアレンジはさすがに「古い」感じがします。多くのアーティストが当時の作品を今演奏する際に、アレンジや演奏スタイルを変えることが多いのは、そのためです。
 これらの突出した特性は、すべてX JAPANの音楽性が生み出したものです。ドキュメンタリー映画『WE ARE X』では、KISSのジーン・シモンズ、マリリン・マンソン、アメリカンコミックの伝説的原作者スタン・リー、ビートルズのプロデューサーを務めた故ジョージ・マーティンなど世界の著名な人たちが、X JAPANの優れた音楽性や魅力を語っています。

特性を音に刻み込んだ意味

 バンド名がXだった1989年頃、筆者は共同プロデューサーとして、アルバム『BLUE BLOOD』の制作を、メンバーたちと共に進めていました。当時、筆者には決心していたことがあります。それは、一切の妥協を排除して、メンバーが望む限り、とことんレコーディングをさせてあげることです。筆者自身がミュージシャン時代、妥協しなければならないレコーディングで残念な思いをしたことと、アーティストの才能や可能性よりもビジネス的な都合や商業的な価値観が先行しがちな日本の音楽業界の特質に対する反発から生まれた決心です。「100年残る音楽」を完成させ、Xの音楽を世に送り出すことによって、強い疑問とともに義憤を感じていた「日本の音楽シーンの問題点」に一石を投じてみようと考えたのです。
 その問題点とは、オリジナリティーが重要視されずに、コピーやモノマネが歓迎される体質です。音楽の先進国であるアメリカやイギリスにおいて、一流のアーティストに要求されるものは、何よりもオリジナリティーです。揺るぎないオリジナリティーがあって初めて、そのアーティストとしての魅力や作品の可能性が評価されます。しかしながら、日本の場合は違いました。
 クラシックもジャズもロックも、みな輸入であり、音楽的な土台や素養がないところに、海外の素晴らしい音楽が入ってきます。そして、その音楽がビジネスになると判明すると、さまざまなやり方でビジネスが展開されていきます。そこで生じたのが、海外のマネをする、というスタイルだったのでしょう。
 もちろん、最初はいたしかたありません。しかし、そういった日本独特の音楽シーンが展開されてから30年以上経ち、若くて才能あるアーティストが生まれているにもかかわらず、ビジネス優先でモノマネの方が歓迎される風潮が一向に変わらないのでは、何年経っても業界は成長しません。
 そうした中、Xの登場こそ、その体質を変えるチャンスでした。何より、Xは個性の塊。オリジナリティーにおいては過去に類を見ない、圧倒的なものを持っています。「ENDLESS RAIN」という、YOSHIKIが生んだ名曲があります。サビを階名で表すと「ミーーシードーー」「レドーシドーーー」「レドーシドーーシー」(注:「移動ド」による表記)となります。これほどシンプルでありながら、聴く人の心を強く打つメロディー、しかも過去の誰も生んだことのない、純粋なオリジナルメロディーです。

世界で通用しない日本的な体質とX JAPANの成功

 筆者の期待は現実となり、Xは日本の音楽シーンのさまざまな記録を塗り替え、ビジュアル系という新たな音楽ジャンルを確立し、ロックが持つ精神性と高い音楽性を一般ユーザーに伝え、まさに日本の音楽シーンを変えていきました。
 Xはやがて活動拠点をアメリカに移し、X JAPANとして海外進出の準備を始めましたが、残念ながら、その途中の1997年で解散してしまいます。
 時は流れ、時代も変わり、解散から10年目の2007年、X JAPANは再結成を発表します。
 先に触れたように、彼らの魅力はインターネットによってすでに世界中に広まっており、数多くのファンが生まれていました。それに応える形でX JAPANは復活し、再び活動を始めることになり、世界ツアーをスタートすると、各地で称賛が起きていきます。10年、シカゴで開催された世界最大級のロックフェスティバル『ロラパルーザ』に出演すると、世界各国のメディア40社以上から取材が殺到し、当地では新人であるにもかかわらず、全米ネットワークテレビ、ABCの『WorldNews with Diane Sawyer』では、プライムタイムで大特集が組まれました。その内容は「ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、ブルース・スプリングスティーンが束になってもかなわない日本のバンドを発見」と報じ、「約50年前、ビートルズがブリティッシュ・インベージョンを起こした(イギリス音楽をアメリカに浸透させた)ように、X JAPANがジャパニーズ・インベージョン(日本音楽ブーム)を起こそうとしている」といった称賛と、全米が注目している様子を伝えたものでした。
 同年以降、ヨーロッパツアーをはじめ、第二の北米ツアー、オーストラリア公演などオファーが殺到し、X JAPANは世界各地での公演を展開していきます。

X JAPANが海外で成功できた理由

著者情報

作曲家/音楽プロデューサー/音楽家

津田直士

つだ なおし

1961年生まれ。早稲田大学卒業。大学在学中よりプロ・ミュージシャン活動を始め、卒業と同時にCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。2003年、フリーランスとなり、作曲家・音楽プロデューサーとして活躍。1989年、周囲の誤解や偏見を乗り越えて、X JAPANと改名する前のXのメジャーデビューを実現させ、制作からマネジメントまで携わった。1992年にXがX JAPANへと改名し、アメリカのアトランティック・レコードに移籍した後の最初の作品にして約30分におよぶ大作「ART OF LIFE」の共同プロデューサーも、レコード会社の壁を超えて務めている。
著書に、『すべての始まり エックスという青春』(クレスタコレクション、2009年)があるほか、CDブックレットのライナーノーツ(バンド及び作品の解説)もファンの間では有名。

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