「福島」をポジティブにしたい!(1)
大友良英(音楽家)
5年前の2011年8月15日、福島市で開催されたイベントが話題を呼んだ。「フェスティバルFUKUSHIMA!」と名付けられたそのイベントは、福島にゆかりのある3人、ミュージシャンの遠藤ミチロウ、詩人の和合亮一、音楽家の大友良英が4月に立ち上げた「プロジェクトFUKUSHIMA!」の一環として開催された。東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所事故から間もない時期に、なぜ彼らはこのプロジェクトを立ち上げたのか? さらに8月に多くの人々を集めてフェスを行ったのはなぜなのか? フェスでは、演奏以外に、運営や司会進行も担当した大友氏に話を聞いた。
きっかけは遠藤ミチロウのひとこと
――大友さんは、東日本大震災の年、2011年の4月28日に、東京藝術大学で「文化の役目について:震災と福島の人災を受けて」という講演をされました。その講演の記録を読んで、「福島」をポジティブな名前に変換する、という言葉が大変印象に残りました。
大友 藝大では、約10年間、年に1回ぐらいの割合で自分がやってる音楽であるノイズやアンサンブルといった内容の講義をしてたんです。あの年は「プロジェクトFUKUSHIMA!」(以下「プロF」と略記)を立ち上げようとしていた時期だったので、それに関連した内容に急きょ変更したんです。
あれから5年が過ぎて、状況も変わっているし、ニュアンスが違って受け取られる、誤解して捉えられてるとちょっと嫌だなと思ってます。というのも、「大友さん、福島のイメージを変えるには、こうしたら」みたいに問いかけられることがあるんです。でも、それだと順序が違っていて、単にイメージを変えたいって話じゃないんです。イメージ戦略みたいなことで言ってたんじゃなくて、もっと本質的に変えたい。そして、その結果としてイメージが変わるようなことになればいいと言ってたんです。
それと、その流れで、「福島を元気にしてください」って言われることにも、ある種の抵抗を感じてます。気持ちはわかるんで、反論したりはしませんが、でも、元気かどうかは極めてパーソナルな問題じゃないですか。福島の人と言っても、様々な立場や状況、考え方の人がいる。それをひとくくりにして、福島を元気にという言い方をしてしまうのは、乱暴に思えちゃうんです。もちろん結果的に元気になってくれる人がいるのはとっても嬉しいことではあるんですが。
――なるほど。では、それを踏まえた上でお話をお聞きしていきたいと思います。「フェスティバルFUKUSHIMA!」の第1回は、震災のあった年の8月15日に開催されました。失礼な言い方ですが、よく開催できましたよね。
大友 当事者が言うのもなんだけど、本当によくできたなって思います。
きっかけは、3月末か4月頭に遠藤ミチロウさんからもらった電話です。当時、自分自身は予定していたヨーロッパツアーをキャンセルして日本に残ったものの、この後どうしようかと考えていたときでした。
――ミチロウさんといえば、伝説のパンクバンド「ザ・スターリン」の中心的メンバーですが、たしか福島県二本松市のご出身ですよね。
大友 そうです。前の年にミチロウさんのユニット「TOUCH-ME」にゲスト出演したことがあって、そのときが初めての共演。その前も京都のフェスで会ったとことがあって、そのときに、同じ福島出身だって話はしてました。でもその後、頻繁に交流があったわけではなかったんです。でもミチロウさんも、オレも、互いにどう考えているか気になったんでしょうね。ミチロウさんはどうしているのか、電話して聞いてみようと思っていたら、先に電話をくれて……。
翌日、すぐに会って結構長い時間話しました。福島で1万人規模の野外フリーフェスをやりたいってミチロウさんが言い出して……、これには驚きました。そのときすでに、ミチロウさんは8月15日という日にちにもこだわっていました。というのも、ミチロウさんは1950年生まれで、太平洋戦争の敗戦から連なって今に至ってるという歴史観を持っていて、東日本大震災と原発事故が戦後というものの大きな節目になるという確信めいたものがあったんだと思います。僕はそこまでロマンチックにものは考えませんが、でもミチロウさんがそう考えているということは僕にも感覚的にはわかりましたし、良くなるという予感はなかったけど、いやむしろ悲観的な予感しかなかったけど、それだけでも、なんとかしなくてはという気持ちが僕にもあったんで。
――プロジェクトのもう一人の主要メンバー、福島在住の詩人である和合亮一さんとは面識があったんですか?
大友 いえ、なかったです。
震災後、現地の報道というと、津波の被害や原発事故関連が中心で、福島市内の報道ってほとんどなかったし、何を信じていいのかわからなかった。それで、情報を得るために、現地の人たちのツイッターをチェックし始めたんです。3月23日に、和合さんの「詩の礫(つぶて)」を見つけて、読み始めました。和合さんの詩からは、報道では伝わらない、実際にそこで生活している人の気持ちや状態が本当に伝わってきました。僕にとっては、ジャーナリズムとしての詩でした。だからこの人に会いたいって強く思って、ツイッターでやりとりするようになったんです。
心から血を流してると感じた福島の人々
――大友さんが福島市に入られたのはいつですか?
大友 ライフラインがほぼ戻った4月11日です。高円寺で大きな反原発デモがあって都知事選もあった翌日です。その日は、大きな余震があって高速道路で足止めをくったし、高速も随所でガタガタでした。でも福島市内は、津波の被害はないし、見た目は震災前と変わっていないかのようでした。夜の街も異様なくらい静かで。いや、それ以前、ある時期から街中はややシャッター街的で虫食いのように駐車場だらけで静かだっんです。だけど、それ以上に静かで。なんか、それを見て、異様な感じがしたんです。笑われちゃうかもしれませんが、放射能のことだって、当時は全く知識がないから、被ばくしてすぐにでもガンになるのかもって覚悟でした。「でもいいや、とにかく福島に行こう!」って切羽詰まった感じだったんです。だから、何も変わってない静かな夜の福島を見たときは拍子抜けしたくらいです。
次の日には和合さんと会って、ミチロウさんがフェスをやりたがってるという話もしました。和合さんだけじゃなく、会った人皆最初は大反対です。でも1時間2時間と呑んでるうちに、やったほうがいいかもって、皆なっていくんですよ。その独特の感じは、今でも忘れられません。そのくらいやらないと、どうにもならないって気持ちだったと思うんです。そのくらい、もう、会う人、会う人が皆、どうしていいのか途方に暮れている状態でした。
そのときに、和合さんが、テーマは「福島」ですね、って言ったんです。ミチロウさんは、最初「原発なんかくそ食らえ」ってテーマで行きたいって言ってたんです。ミチロウさんらしい、推進とか反原発とかでもなく、ものすごくパンクな発想だったと思います。でもそれでは、僕は多くの人に説得力を持ち得ないと思ってました。
それはつい2日前の高円寺のデモと、都知事選での石原(慎太郎)さんの圧勝を見ていたってのもあります。
同時に、福島に行く前、たまたまテレビで海外のデモ隊の持つ「NO MORE FUKUSHIMA」というプラカードを見たんです。もちろん原発事故はNO MOREというのはよくわかる。でも福島そのものをNO MOREと言われているような気がして、福島なんかどうでもいいと思って飛び出したのに、こんなオレでも傷つくんですね。さらに、福島市の人たちの様子を見ていて、これはなんとかしなくては本当にまずいって気持ちもありました。それもあって、和合さんの言う一番のテーマは「福島」だってことに響いたんです。そこからすぐに「プロジェクトFUKUSHIMA!」という名前も出ました。傷ついてしまった「福島」を、ここから始まったんだと胸を張れるような、広島みたいな場所にできないかな、そんなことをそのとき思ったんです。もちろん、福島をポジティブな名前に変換するのは並大抵のことではないのはわかります。それでも、そんな夢を最初に語るのが文化の役目だとも思ったんです。そして福島から発信していくことが重要だとも。
著者情報
音楽家
大友良英
おおとも よしひで
1959年横浜生まれ。即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽 をつくり続け、世界各国で活動。映画などの映像作品の音楽を手がける一方で、さまざまな人たちとのコラボレーションを軸に、音楽作品や特殊形態のコンサートを手がけてもいる。障害のある子どもたちとの音楽ワークショップや一般参加型のプロジェクトといった活動でも注目されている。2012年、プロジェクトFUKUSHIMA ! の活動で芸術選奨文部科学大臣賞芸術振興部門を受賞、13年には「あまちゃん」での音楽活動で東京ドラマアウォード特別賞、レコード大賞作曲賞ほか数多くの賞を受賞。ギタリスト、ターンテーブル奏者、作曲家、プロデューサーとしても活躍中。著書に『大友良英のJamjam日記』(2008年、河出書房新社)ほか。