宝塚歌劇はなぜ100年続いたのか?
鈴木国男(共立女子大学文芸学部教授)
宝塚歌劇は、2014年4月、100周年を迎えた。日本の劇団組織としては史上最長。女性だけの劇団ということ自体が既に特筆すべきことである。この世界に類のない成功の理由がいま改めて注目されている。それは経営戦略にあるのか、組織の秘密にあるのか。エンタメ事業としての宝塚歌劇100年とその未来を斬る。
最長不倒距離の秘密
日本の演劇は、たいていの場合、予定の時間より5分は遅れて始まる。その中で歌舞伎と宝塚は必ず定刻に開演する数少ないプロ集団といえるだろう。宝塚が時間に正確なのは、鉄道会社が経営しているからだともいわれる。日本の劇団の中で、100年という最長不倒距離を達成した宝塚歌劇団の秘密がここにある。
1914年(大正3)4月1日、兵庫県の小さな温泉町だった宝塚で、第1回公演がおこなわれてから100年になった。その地名が現在世界で知られるTAKARAZUKAの由来となった。
なぜ宝塚か?
それに先立つこと4年、大阪・梅田と箕面(みのお)および宝塚を結ぶ鉄道が開通した。現在の阪急電鉄の前身である。沿線は野原や田畑が続くばかり。乗客も少ない。これでは会社がつぶれてしまうと考えた経営者は、まず沿線開発に乗り出した。日本で初めての住宅ローンを取り入れ、大阪に通勤するサラリーマン層にマイホームを提供した。商店や学校ができれば、そこに住む家族全員が鉄道を利用してくれる。これも日本初のターミナルデパートも作った。一言でいえば、20世紀の私鉄経営のビジネスモデルのすべてを発案したこの経営者の名は、小林一三。彼こそが、阪急・東宝グループ、そして宝塚歌劇団の生みの親である。
大阪へ向かう乗客を、もう一つの終着駅宝塚にも運びたい。小さな温泉町を魅力あるものにするために、娯楽施設を作る。これも今日でいうスパリゾートやテーマパークの走りと言っていいだろう。沿線から電車に乗ってやってきた家族連れを楽しませるアトラクションはないか? 当時、老舗デパートの客寄せに少年音楽隊が作られて人気を呼んでいた。これにヒントを得た小林は、10代の少女を募集して、音楽や舞踊を習わせた。指導者には一流の人物を迎えた。1913年に宝塚唱歌隊として発足し、宝塚少女歌劇養成会と名を改めた。そのお披露目がちょうど100年前のことだったのである。これが現在の宝塚音楽学校、そして宝塚歌劇団の母体となった。
100年続いた理由とは?
ポイントは二つある。まずはじめは、見る側も演じる側も「健全」であったことだ。明治時代になってもなお、日本の演劇のほとんどは歌舞伎劇かそれに類するものであった。良くも悪くも江戸情緒たっぷりの、際どい刺激に満ちた大人の世界だった。役者、ことに「女優」に対する世間の偏見も、今日では考えられないほどのものがあった。花柳界と同様、贔屓(ひいき)になるには財力も経験も必要だ。だが、少女歌劇は違う。中流階級が家族連れで安心して楽しめる。演じる者は「女優」ではなく、これも健全な家庭の子女が学校の「生徒」として、優秀な指導者のもとで技芸のみならず躾(しつけ)や教養も厳しく教育された成果を披露するのだ。なによりも、れっきとした鉄道会社の事業ではないか。
もう一つのポイントは「西洋」である。大正時代(1912~26)ともなれば、西洋の文化や習慣はかなり生活に浸透し、人々の関心や憧れも高まっていた。なによりも学校教育の普及により、日本人の耳は西洋音楽に深くなじんでいた。洋楽による歌舞劇、新しい時代の国民劇、これこそが小林一三の理想だった。100年後のミュージカル全盛を見通していたかのような先見性には驚かされる。
100年続かせた経営戦略
経済人小林一三の真骨頂は、劇場のキャパシティーを大幅に増やすことによって、一人当たりの入場料金を安くするという発想だ。1924年に4000人という破天荒な収容人数をもつ宝塚大劇場を、34年には東京宝塚劇場を実現させる。しかし少女歌劇にとっては、あまりに大きな劇場は荷が重い。そこで欧米の新しい舞台を研究し、歌と踊りで連続して舞台を展開していくレビュー(ショー)というジャンルを定着させるとともに、マイクロフォンや最新の照明・舞台機構、ドーランによって肌の色や目鼻立ちを美しく見せるメーク、大階段や銀橋(エプロンステージ)などをいちはやく採り入れ、宝塚歌劇ならではのスタイルを確立する。
女性だけの劇団であることのマイナスをプラスに変え、他では見られない「朗らかに、清く、正しく、美しく」のモットーを実現する舞台を作り上げた。何よりも「男役」の存在が特色となり、昭和初期になると、小夜福子、葦原邦子、そして春日野八千代といったスターが誕生して人気を競った。発展につれ、劇団内に花・月・雪・星・宙という「組」を作り、独立したユニットとして公演をおこなうことによって、宝塚歌劇という統一性を保ちながら、組の特徴が生まれ、競い合い、それぞれにファンが生まれるという相乗効果にもつながった。
タカラジェンヌの品質管理
創業の精神は現在も受け継がれている。運営は依然として阪急電鉄が担っている。制作、脚本・演出、音楽、美術などは歌劇団専属のスタッフが担当するのが原則である。大劇場公演はすべて専属オーケストラの生演奏で上演し、舞台を支える裏方は全員が宝塚舞台というグループ会社に所属している。出版を手掛ける阪急コミュニケーションズ、衛星放送やDVDなどを扱う宝塚クリエイティブアーツという会社もある。
舞台に立つのは、宝塚音楽学校を卒業した女子に限られ、歌劇団入団の時点で「研究科1年(研1)」になったと位置づけ、1年以内にどこかの組に配属される。研2・研3…と年次を重ね、各組のトップスターや組を束ねる組長、技芸に優れたベテランが組を離れて所属する「専科」になっても、在団する限りは「生徒」である。
歌劇団から派遣されてテレビなどに出演することはあっても、事務所に所属し様々な芸能活動をおこなう「タレント」とは違って、あくまで舞台中心の生活。いわば1日24時間、1年365日「タカラジェンヌ」なのである。
こうした帰属意識と連帯感こそが日々の精進を支える。阪急という大きな屋根に守られ、隔離された花園であると同時に、ある意味では徹底したマネジメントと品質管理がなされている。これこそが宝塚の真の特色である。
類をみない完璧なビジネスモデル
初演以来40年を数える「ベルサイユのばら」は、メディアミックスの先駆けだった。文学・映画・外国ミュージカルから漫画・ゲームまであらゆるコンテンツを取り入れ、ひとたび舞台にかければ魔法のように宝塚ワールドにしてしまうノウハウも、伝統あってのものだ。宝塚友の会や、「歌劇」「宝塚グラフ」という機関誌の歴史も古い。ファンクラブを通じて生徒を熱心に応援し、ファミリーのような親密感をもって支え育てようとするファンが、親子・きょうだい・友人へと数世代にわたることも珍しくない。憧れのスターに胸をときめかせ、華やかな舞台のあらゆる要素を思う存分味わうため、何度も観劇をリピートし、関連グッズを購入する。劇団四季とも違う、ジャニーズとも違う、世界でも他に類をみない完璧なビジネスモデルを作り上げたことが、100年続いた理由である。
100周年以後の課題
だが、時代は移る。今やプロ野球の阪神タイガースと並んで阪急阪神グループのエンターテインメント部門の支柱としての役割は重い。多様化する娯楽の中で、今までのプラスがマイナスに転じ、シビアな経営判断がなされることもあり得るだろう。いつまでも「特殊な世界」と思われたのでは観客層は拡大できない。若い世代、男性、そして海外からの観客を呼び込むためにはどうすればいいのか。
ともあれ宝塚歌劇はすでに一つのジャンルであり、文字通り日本文化の宝である。これを民間の力だけで作り上げたことは称賛に値する。一度勇気をもってのぞいてみれば、未知の快楽、新たな発想が待ち受けているかもしれない。
著者情報
共立女子大学文芸学部教授
鈴木国男
すずき くにお
東京大学文学部卒。同大学院博士課程中退。ローマ大学演劇研究所に留学。イタリア演劇専攻。日本演劇学会理事・イタリア学会会員・歌舞伎学会会員。