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もう一つの「逃走」~桐島聡の盟友、7年間の逃亡生活回顧録(後編)ストリップ劇場、日雇い労働、農家の手伝い――流転の日々

黒川祥子(ノンフィクションライター)

前編からのつづき)
 1975年9月、宇賀神寿一(うがじん・ひさいち、当時22歳)は潜伏していた名古屋を離れ、鎌倉の銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)を目指す。5月23日夜に一緒に指名手配となった、東アジア反日武装戦線(*1)「さそり」(*2)の同志である、桐島聡と会うためだった。

 

1度目の〈9・9・3〉

 宇賀神さんと桐島さんは別れる際、〈9・9・3、銭洗弁天〉という符牒を決めた。「9月9日午後3時に、鎌倉の銭洗弁天で会おう」という意味である。
 しかし、まさか、その直前に過激派による誤爆事件が起きるとは思いもしないことだった。
 1975年9月4日、午前2時。横須賀市の木造2階建てアパート1階102号室で爆発が起こり、室内にいた3人と、真上の部屋にいた母娘と合わせて5人が死亡、9人が負傷(編集部註:負傷者8人という報道もある)という大惨事となった。102号室の3人は中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)の活動家であり、爆弾製造過程での誤爆が事故の原因だった。

「同じ沿線だったし、警察が捜査網を敷いていたので、その取り締まりに引っかかっちゃう恐れがあった。だから、長居はできないと思って。でも、銭洗弁天には行ったんだよ。変装してね」

 実際、銭洗弁天に行って驚愕したのは、そこが「宇賀福神社」という名でもあったことだ。

「ただの銭洗弁天だと思っていたのに、行ってみたら、当時はもっと小さい、目立たない石碑ではあったけど、宇賀(福)神社って書いてあった。『宇賀神が、宇賀(福)神社に』なんて、洒落にもならない」

 指名手配が出た翌日に別れて以来、待ちに待った日だった。

「あの爆破事件でかなり心配して行って、神社の真ん中を通って、桐島がいないかって、見ながら歩いたんだけど、いなかったんだよな。あまりゆっくりするわけにもいかず、結局、会えなかった。あいつも事件のことがあり、ちょっと表に出ることはやめておこうと思っていたかもしれない。会えなくて、本当にがっかりした」

いつの間にか昔より大きくなったという宇賀福神社の石碑(撮影:黒川祥子)

ストリップ劇場の照明係、南の島での農作業

 桐島さんと会うことができなかった宇賀神さんはすぐに、関東を離れた。働きやすかった名古屋に戻り、今度は寄せ場ではなく、新聞の求人欄にあった「劇場の照明係 寮完備」を目指した。仕事先は、まさかのストリップ劇場。応対した中年男性は、とても堅気には見えなかった。

「『じゃあ、こっち、来いよ』って言われて、すぐに働くことになった。経営者は、ヤクザだったんじゃないかな。『寮』なんてものじゃなく、もうボロボロ。男4人で、6畳ぐらいの部屋に雑魚寝。ショーは昼と夜1回ずつで、1日2回。給料は月2万円だった」

 任されたのが、ストリップショーの照明係だ。

「初めてだったけど、でっかい機械を操作して照明を当てるという、面白い仕事だった。タレントさんとの付き合いもあって、それもよかった。10日の興行だから、最後の日にご祝儀といって、お小遣いが貰えるんだよね。それが2万円ぐらいで、少し潤ったかな。照明だけでなく、掃除も雑用も荷物運びもするし、結構、忙しかった」

 劇場の裏では、さまざまな人間模様を目にすることとなった。

「女性のタレントさんにマネージャーがついていて、夫婦みたいなものだった。小さな子ども連れで、全国を興行しているんだな。学生だった身には、知らない世界だよ。お母ちゃんに逃げられて、お父ちゃんが子どもの面倒を見ていて、その子どもが言うことを聞かなくてよく泣いていて、とかね。いろんな人間の生き様というか、人生の縮図のようなものが見られて、そういう意味ではよかった」

 履歴書や身分証を必要としない職場というのは、さまざまな事情を抱える人たちの吹き溜まりでもあった。その中に、いかにもひ弱な、学生のようなボンボンが1人。「いろんな人にわりと可愛がってもらった」という。

「半年くらいいたんだけど、近くのストリップ劇場に、公然わいせつ罪とかで警察の手入れがあったという話を聞いて、自分がいるところにも警察が来るんじゃないかと。ストリップの手入れで逮捕されるのは嫌だから、そろそろ潮時かと思って、夜逃げした」

 宇賀神さんは名古屋から大阪へ向かい、フェリーで沖縄を目指した。沖縄は高校生の時に単身、訪ねたことがある思い入れのある土地でもあった。

「沖縄本島だけでなく石垣島や、与那国島にも行った。農作業の働き手が少ないから、わりとすぐに雇ってもらえて。サトウキビとかパイナップルとか農業関係の仕事をして、その家のひと間に住まわせてもらって、ご飯も出してもらえて。仕事してクタクタになって、倒れ込むようにすぐ寝ちゃう」

逃亡中に何を考えていたのか

 それは追われているという“危機感”と、背中合わせの日々だったのか。

「楽天的な性分というのもあって、そんなに危機感はなかったかな。運命を呪うとか、死のうと考えていた時期もあったけど、ずっとそれじゃノイローゼになってしまう。その時期を過ぎたら、今ある現実の中で生きていこうと。怖いとか悲しいとかよりも、とにかく必死だった。ただ必死に生きていくというだけ」

 自分の指名手配写真が貼ってある島の交番で道を聞いたこともあれば、巡査がスーパーカブの後ろに乗せてくれて、目的地まで連れて行ってくれたこともある。

「どうなってもいいような気持ちがあって、交番に様子を見に行ったんだけど、こんなヤツが大層なことやるわけがないだろうって、俺の雰囲気が使命手配犯であることを否定していたんだろうね。怖いことなんかしないだろうという感じを与えていたんだと思う」

 日本赤軍が起こした1975年8月のクアラルンプール事件と、1977年9月のダッカ日航機ハイジャック事件を経て、「狼」と「大地の牙」のメンバー3人が超法規的措置として釈放された時は、地団駄を踏む思いを味わった。

「一緒に行きたかった。俺も連れてってくれよ、って。沖縄から台湾までの密航も考えたけれど、そんなことはなかなか難しくて」

 逃走の渦中、「さそり」のメンバーになったことについて、後悔はなかったのだろうか。

「自分が決めたことだから、今でも後悔はない。東アジア反日武装戦線が打ち出した日本人の加害者性を直視して、そのうえで中国人や朝鮮人、東アジアの人たちとどうやって一緒に闘っていくかを考えていくという視点は、いいと思う。だけど、爆弾なんか使わずに、もっと別の方法があったとは思う。爆弾というのは、やっぱり良くない。どんなに気をつけても、偶然通りかかる人を巻き込む可能性があった」

 1974年8月の三菱重工爆破事件の後から東アジア反日武装戦線に加わった「さそり」は、爆弾を使った「闘争」において、とにかく被害者を出さないことを徹底的に心がけたという。しかし、何度も入念に下見をしたにもかかわらず、1975年4月28日未明の間組(はざまぐみ)江戸川作業所爆破では、1人の重傷者を出す事態となった。宇賀神さんが「人を巻き込む可能性がある」と自戒を込めて語るのは、自分たちの闘いにおいて被害者を出してしまったことへの、取り返しのつかない後悔と謝罪の思いからだった。

 逃げている間、指名手配犯だと分かったうえで、助けられたこともある。

「匿って、泊めてくれた人もいたんだけど、齋藤和(のどか)さんが青酸カリで自決したこと(*3)が衝撃だったようで、俺はその人から『おまえも口先ではなく、死ぬ気でやっているのか』と問い詰められたし、『逮捕されたら、自分のことを警察に言うのか』と迫られた。俺は『もしものことがあっても、絶対に喋らない』と答えたし、実際、逮捕後の取り調べでは一切、自供はしなかった」

著者情報

ノンフィクションライター

黒川祥子

くろかわ しょうこ

1959年福島県生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。業界紙記者などを経てフリーライターとなり、家族の問題を中心に執筆活動を行う。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』で第11回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『熟年婚』(河出書房新社)。 また、橘由歩の筆名で『「ひきこもり」たちの夜が明けるとき』(PHP研究所)、『身内の犯行』(新潮新書)、『セレブ・モンスター』(河出書房新社)、『全国ごちそう調味料』(幻冬舎)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『PTA不要論』(新潮新書)、『8050問題』(集英社)、『心の除染』(集英社文庫)、などがある。息子が二人いるシングルマザー。

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