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社会問題

国家に都合のよい大学になってはいけない

市場経済至上主義は科学への信頼をゆがめる

島薗進(上智大学大学院実践宗教学研究科教授、グリーフケア研究所所長)

(構成・文/村山加津枝)

 今年も多くの若者が、4月から大学生活という新しい船出をしようとしている。しかし今、その大学に憂慮すべき事態が起こりつつある。文部科学省が、国立大学から文系の学部を排除し、理系中心にしようとしているのだ。これによって大学は今後どうなるのか? 宗教学が専門で、東京大学で26年の長きにわたり教鞭をとり、日本学術会議会員などもつとめた島薗進先生にお話をうかがった。

国家の「理系重視」に大学が追従

 2014年8月、文部科学省の審議会のひとつである国立大学法人評価委員会で配布された資料が公表され、多くの大学の職員、特に、いわゆる文系に関係する人々がその内容に反発しました。資料の「見直しの基本的な方向性」という項目には、各国立大学で得意領域を作り、それに特化していくことがあげられています。さらに「組織の見直しに関する視点」という項目では、教員養成系や人文社会科学系は廃止あるいは転換とあり、いわゆる理系を重視することが掲げられています。
 それぞれの大学が得意領域を作ることは、一見よい方向性のように思われるかもしれません。しかし、ここでいう得意領域が、国家にとって必要な領域、都合のよい領域であることが問題です。
 国家に都合のよい科学分野を推進するというのは今に始まったことではなく、第二次世界大戦頃から顕著になった気がします。それは主に軍事部門でした。倫理的な価値判断などをする前に、「とにかく目的を果たせ」と突き進むわけです。細菌兵器の研究などをしていた日本の731部隊や、原子爆弾の開発のため科学者を総動員したアメリカのマンハッタン計画などがそのよい例です。その後も、たとえば1956年に総理府の外局として設置された科学技術庁は、原子力と宇宙開発が主要領域であり、国家の意向に沿う科学分野のテコ入れという側面を持っていたと思います。
 国家が、政治的な目的に沿った科学の展開を進めたいと考え、そのために研究組織を変えるということは以前からあったことなのです。
 今年(2015年)の1月、東京大学が軍事目的の研究を解禁したという報道が話題になりました。その後、総長が否定しましたが、東大の研究者はもともと国家に近く、官僚と協力する機会も多いですから、おのずと国家に協力しようとする傾向が強くなりがちです。けれども、伝統的な自由な知的探求を重んじる学問理念の基盤も強いので、何とかそちらを守ろうとする勢力も同時に存在するわけです。
 こうした大学内のバランスを保つためにも、今回の理系重視という決定にはおおいに疑問を感じています。

経済目的によって、あるべき姿を見失った科学

 直接的な政治・軍事目的に沿った科学分野の統御という傾向は、1980年代あたりから経済目的を媒介とした統御へと転換していきました。
 大学での研究、特に理系の研究には、多額の研究費がかかります。そこで、多額の研究費が投入される分野に多くの研究者が集まることになります。いっぽうで、研究のトップにある者は、優秀な研究員を集めるために、できるだけ多額の研究費を捻出しなければなりません。国は産業界の利益が国家の利益になるとして成長産業を後押しします。研究費は国と産業界の双方から来ますが、お金を生むイノベーションや新分野開拓などの研究が優先されがちです。
 経済的な効用につながる研究が優先され、あらゆる面で競争に勝つことが強調され、少しでも他人に先んずることが求められる。市場経済と自由競争が至上原理になる。それに振り回されることは科学本来のあるべき姿ではありません。国家と市場経済に追従しなければならないという状況下で、理系の学者たちも呻吟(しんぎん)しているのではないでしょうか。
 安倍政権下での今回の大学改革は、学問に市場経済原理への追随を促すもので、理系に限定せず、学問本来の在り方からずれていく力となると思います。
 大学の在り方が市場経済原理の方向に引き寄せられるという状況は、サッチャー政権(1975~90)が誕生したイギリスでも起こりました。当時、私はイギリスの宗教社会学者と交流があり、文系の優秀な学者たちがアメリカへ逃げるのを嘆いていたのを覚えています。
 ただし、フランスが典型的ですが、ヨーロッパの国々では、伝統的な学問理念が大学の堅固な土台となっていて、哲学を初めとする文系諸領域が重要であるとの共通理解があります。また、知的文化を通して世界に強い影響を与えることができると信じています。
 もし日本で大学から文系の学問を追い出していくようなことが起こるとすれば、すでに起きているかもしれませんが、多くの才能を失い、国力を落とすことにもなりかねません。何より、次世代を担う若者から良質な学問を学ぶ機会を取り上げることになります。
 日本でも、本来、文系分野、とくに人文学分野が持っているすぐに商品価値にはならないソフトの力が文化の豊かさを支えてきたはずです。ただ、理系のように数値化して評価がしにくいという面があり、世界的に標準化されにくいともいえます。その意味でグローバル化にすぐにはなじまない面もある。
 それでも、生物学上、多様性の価値が知られているのと同様、学問に関しても知的な多様性が長期的に見て大きな力となります。私が親しくしている医学系の学者や研究者でも、とくに精神科の方々にはそれがよく見えている。数量化されるエビデンスでは測れないものの意義を重んじています。人間を対象とするはずの医学系の大学が、生命倫理や人文社会系の研究分野をどう遇するか、注目すべきです。
 

理系優先は、理系にも不都合?

 市場経済至上主義は多くの不都合をも引き起こしています。
 理系でも、物理学のように基礎的なものを積み上げていくような分野には予算がつかず、すぐに結果が出る工学部や医学部にまわるという不均衡も出てきています。結果を出すことにだけ血道を上げているというのは、学問の姿としてやはりゆがんでいます。
 文系の学問には、長い時間をかけなければ結果が出てこないことが多いという面があります。19世紀から続いている辞典の作成に携わっているという古典研究の教授の話を聞いたことがあります。将来どんな専門科学に携わるにせよ、まずは知的な基盤を広げておくことが大切です。それでは時間がかかりすぎて人生設計が遅れてしまうというのは寂しい世界です。
 また成果主義によって、業績を示すための数値、つまり論文の引用回数や掲載誌の点数などで優位に立とうとするあまり、論文の無断引用や捏造(ねつぞう)などの不正につながっていくケースが目立つようになりました。医学系では、診療報酬が高い治療を優先的に行うといったことが常態化しています。大きな利益を生む新薬の開発に力が注がれ、薬の副作用を軽視した結果、さまざまな薬害事件が生じており、最近では子宮頸がんのワクチン問題なども起きています。
 結果、科学への信頼が失われてきました。
 1970年代からあるトランスサイエンスという考え方を、最近よく耳にするようになりました。これは、科学が問題を提示することはできるけれども、科学だけでは解決できない問題がある、という考え方です。たとえば、原子力やエネルギーの問題は科学の領域で解決できる、科学者だけで答えを出せるという考えが強かった。けれども、実際にはどういう社会を目指すのかという社会的合意や価値観や倫理の側面が大きいことが、あらわになっています。
 科学と社会という観点に立つと、科学者と市民との関係の難しさというものが浮かび上がってきます。科学者側は、自分たちの発言が市民に理解されないのは、市民に科学技術リテラシーが足りないからだ、といいます。その足りないことが主要な問題なのだから、市民が科学技術リテラシーをつけられるような教育をすればいいという主張です。
 これを全面的に否定するつもりはありません。しかし逆から見れば、科学者には社会リテラシーが弱いという面があります。これはオウム真理教に関連する一連の事件のときもいわれましたし、東京電力福島第一原子力発電所事故のときもいわれたことですが、専門科学の情報処理や推論に長けた人の中には、社会の諸問題に向き合うための知的な基盤が弱い人が出てきてしまうが、本人たちはそれに気づいていないといった問題です。
 そうしたことを防ぐためにも、専門分野を学ぶ前に、あるいは学びながら、広い視野を持てるような教育や討議の場を形作るのが大学の使命であり、それが充実すれば科学への不信も克服されていくのではないでしょうか。

他にも問題山積の大学

著者情報

上智大学大学院実践宗教学研究科教授、グリーフケア研究所所長

島薗進

しまぞの すすむ

1948年東京生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科教授(宗教学)などを経て、現職に。専門は近代日本宗教史、死生学。宗教者災害支援連絡会代表、原子力市民委員会委員、「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人などもつとめる。17年7月には、世界平和アピール七人委員会委員に就任。著書に、『宗教ってなんだろう?』(2017年、平凡社)、『宗教を物語でほどく』(16年、NHK出版新書)、『いのちを“つくって”もいいですか?』(16年、NHK出版)、『宗教・いのち・国家』(14年、平凡社)、『国家神道と日本人』(10年、岩波新書)など、共著に『近代天皇論』(17年、集英社新書)、『愛国と信仰の構造』(16年、集英社新書)など多数。(2018.3)

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