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暴力による統治は続くのか~ミャンマー危機の行方

中西嘉宏(京都大学東南アジア地域研究所准教授)

 2021年2月、ミャンマーで突如、軍事クーデターが起こりました。その後、クーデターに抵抗する市民への弾圧も激化する一方です。
 2011年の民政移管以降、民主化へと進んでいるように思われていたミャンマーで、なぜこのような事態が起こったのでしょう。クーデターの背景と現状、そして今後の情勢の予想を、中西嘉宏・京都大学准教授に解説していただきました。

市民たちの抵抗のポーズである「3本指」のマークを掲げるデモ参加者(2021年5月11日、ヤンゴン)

クーデターはなぜ起きた?

 ミャンマーの政変は突然のことだった。きっかけは軍事クーデター。2月1日未明、軍の部隊が最高指導者であるアウンサンスーチーウィンミン大統領をはじめとする政権幹部を拘束した。続けて憲法417条による非常事態宣言が発令され、国家の全権が国軍最高司令官であるミンアウンフライン将軍に移譲された。
 軍によると、非常事態宣言の理由は昨年11月8日の総選挙にあるという。この選挙では与党である国民民主連盟(NLD)が大勝したが、この勝利がNLDの不正によるものだったというのである。この不正疑惑は、選挙が終わった直後からずっと軍が追及してきたものだったが、NLD政権は耳を貸さなかった。2月1日はこの選挙で当選した議員たちがはじめて連邦議会に招集される日。不正で当選した議員たちの議会招集が国家の非常事態だ、というのが軍の政権掌握の説明だ。

 この不正疑惑を軍関係者が信じている可能性もあるのだが、その真偽はいったん措くとして、クーデターの目的がアウンサンスーチー派の一掃であることは間違いない。その後の筋書きもほぼ見えていた。政権幹部に対しては刑事訴追を行い、党組織に対しては不正調査を行ったうえで、不正を「証明」してNLDの政党登録を抹消する。そして、再選挙を行って、軍に近い旧与党である連邦団結発展党(USDP)が勝ち、新たに樹立した新政権に国家権力を移譲する。
 要するに、国家権力の中枢を軍に取り戻すためのクーデターだったのである。2011年の民政移管以来の権力闘争の帰結として理解すべきであろう。

拡大した市民の抵抗

 一発の銃弾も使わずに政府の中枢を掌握した軍は、おそらくNLD支持者の抵抗を織り込んでいたはずである。現に、政権中枢だけでなく、NLDの党幹部についても拘束している。だが、クーデターへの抵抗は想定を超えて広がった。
 突然の事態に市民が様子を見ていたのは1週間程度で、その後、街頭に人が溢れた。政権幹部の拘束を非難するデモや集会が全国に広がったのである。第1の都市ヤンゴンでは市街の中心部に加えて、レーダンやミェニゴンといった幹線道路上の主要な交差点がデモ隊に占拠された。2月22日には「22222革命」と銘打たれた全国規模のデモとゼネストが起きた。正確な数はわからないが、全国で参加者が400万人を超えたともいわれる。規模の大きさも驚きだが、反対運動の性質もこれまでとは違った。かつてのミャンマーで起きた大規模な反政府デモ(1988年や2007年に発生)と、今回の反軍デモの様相の違いを3点指摘しておこう。

 まず、老若男女、多様な人々が抵抗運動に自発的に参加した。これは、急進派の学生たちや一部僧侶がリードしてきた過去の反政府運動とは違う。今回、中心となったのは若い世代で、Z世代と呼ばれる1990年代後半以降に生まれた人々だ。Z世代の若者たちは、ミャンマーで2011年の民政移管後に進んだ自由化と経済発展、海外との交流を享受した最初の世代で、子供のころから表現の自由や結社の自由、そしてインターネットをはじめとした情報通信の新しいテクノロジーに親しんでいる。不自由を強いる軍の統治は彼ら/彼女らにとって到底受け入れられるものではなかった。

 次に、担い手が変われば、スタイルも変わる。デモ参加者は、仮装あり、ミニコンサートあり、パフォーマンスあり、とエンターテインメント性も混ぜながら、政治運動に付随する危険なイメージの払拭に努め、多くの市民の動員を図った。そしてそれに成功した。これは、タイでの市民デモを思い出させるもので、現に、抵抗のポーズとして広まった人差し指、中指、薬指を立てる抵抗のパフォーマンスは、タイで2014年のクーデターに反対する勢力が採用した抵抗のサインの模倣である(そもそもはアメリカ映画の『ハンガー・ゲーム』での主人公のポーズに由来する)。デモ隊やその支援者たちは、タイや香港との国際的な活動家ネットワークから多くを学び、実践していった。

 そして、最後は抵抗の範囲である。これまでの反政府運動は都市部が中心だったが、今回は農村にも抵抗の動きが及んだ。デモはもちろん、軍が新たに任命した村長を拒否する動きもあった。政府に従順だったかつての農村住民像とは違う姿がそこにはあった。むろん、アウンサンスーチー支持の広がりや軍の不人気が根本にはあるが、それに加えて、政治的な意思を表明するために必要な要素、すなわち、教育やインターネットを通じた情報の流入といったものが、民政移管後に農村の人々の行動原理を大きく変えた結果といえよう。 

市民を撃つ軍という驚き

 2月末から3月にかけて、ミャンマーの季節は乾季から暑季に変わる。2月には日本の初夏のような気持ちのよい日が続く。そのなかで広がった市民の平和的抵抗は、3月の気温の上昇に合わせるかのように一転して血なまぐさいものとなった。2月末から軍が強硬姿勢を強めたのである。
 ミャンマーのNGOである政治囚支援協会(AAPP)によると、クーデターから4カ月で800人を超える市民が弾圧の犠牲になっている。市民の抵抗は基本的に非武装である。武装していても、空気銃、火炎瓶、短剣、鉄板の盾、手製の爆発物、狩猟用のライフル銃といった程度である。対する軍は、当初こそ放水や催涙弾、音響手榴弾など暴徒用で殺傷能力が低い武器を用いていたが、次第に実弾を用いるようになり、ときには機関銃や迫撃砲のような戦場用の武器まで市民に対して使用した。とりわけ犠牲者が多く出たとされるのは、3月14日のヤンゴン郊外にあるフラインターヤー地区での衝突、軍記念日の祝日であった3月27日の全国的な衝突、4月9日の地方都市バゴーでの衝突である。いずれも100人前後の犠牲者が出ている。

 市民のデモを弾圧することは権威主義的な国では珍しいことではない。だが、軍が実弾を発射して死者を出すようなことは極力避けるのが一般的である。発砲によって死傷者が出ると、国民感情を逆に刺激して抵抗が広がる可能性があるからだ。また、国際社会からの批判も覚悟しなければならない。軍内でも反対の声が上がって、組織管理に支障が出る可能性もある。本来リスクが高い選択なのである。だが、ミャンマー軍はためらいなく武力による抑え込みを選択した。
 背景には、軍が長年にわたって内戦を戦い、また、国内の反政府運動を武力で鎮圧してきた歴史がある。そもそも軍にとっての主たる脅威は、1948年の独立以来ずっと、国民の一部である共産党や少数民族武装勢力であった。しかも、今回は政敵を一掃するためのクーデター後に広がった抵抗である。軍の目には、抵抗する人々が、秩序に対する脅威であるとともに、駆逐すべき政敵として映る。そうなると、もはや市民ではなくなる。反軍運動参加者を強硬に抑え込むことが正当化されるのである。軍を離れて抵抗に加わった軍関係者たちの証言でも、軍内には反アウンサンスーチー感情が浸透しているといい、一般社会とは隔絶した軍という特殊な集団がもつ閉鎖性も軍の暴力の背景にはありそうだ。

抵抗は続く

著者情報

京都大学東南アジア地域研究所准教授

中西嘉宏

なかにし よしひろ

1977年、兵庫県生まれ。2001年、東北大学法学部卒業。2007年、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科にて博士(地域研究)取得。日本貿易振興機構・アジア経済研究所研究員などを経て2013年より京都大学東南アジア研究所准教授を務める(17年、同大東南アジア地域研究研究所に改称)。著書『軍政ビルマの権力構造 ネー・ウィン体制下の国家と軍隊 1962-1988』(京都大学出版会、2009年)で、第26回大平正芳記念賞受賞。ほか、共著に『ミャンマー2015年総選挙 アウンサンスーチー政権はいかに誕生したのか』(アジア経済研究所、2016年)、著書に『ロヒンギャ危機ー「民族浄化」の真相』(中公新書、2021年)などがある。

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