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東欧革命から30年。ポピュリスト台頭で今日も続く東西間の「政治的分断」①1989年、ソ連・東欧諸国で吹き荒れる民主化の嵐

全3回

熊谷徹(ジャーナリスト)

 1989年は、世界史の中で特筆するべき年だ。ハンガリーポーランドチェコスロバキア(当時)などで立て続けに共産主義政権が崩壊し、民主化が始まったからだ。
 革命は東ドイツにも飛び火して、同年11月9日に東西ベルリンを分割していた壁を崩壊させ、翌年のドイツ統一への道を開いた。91年にはソ連自体も解体された。
 つまりこの民主革命は、第二次世界大戦終結以来続いていたソ連による支配と抑圧から東欧諸国を解放した。第二次世界大戦中に米英ソの首脳がヤルタ・ポツダム両会談(ともに45年)を通じて築いた、欧州の東西分割体制に終止符が打たれた年でもある。
 その後東欧諸国は欧州連合(EU)や、米国を盟主とする軍事同盟・北大西洋条約機構(NATO)に次々に加盟した。彼らは、半世紀近いソ連による支配を経験したことから、将来ロシアが再び領土拡大などの野望を抱いた時に身を守るためには、西側の国際機関に属することが不可欠だと考えたのだ。これは鉄のカーテンの向こう側に強制的に閉じ込められていた東欧諸国の、「欧州への帰還」だった。西欧諸国にとって、欧州の分断終結と新たな市場の誕生は、冷戦終結がもたらした平和の配当だった。
 だが歴史の振り子は真ん中では止まらず、反対側に大きく振れる。今では、当時民主化をめざしたはずの東欧諸国の多くで右派ポピュリスト政党が権力の座に就き、民主主義の根幹である司法の独立や報道の自由をめぐって、EUや西欧諸国と鋭く対立している。東欧諸国の「造反」は、90年代に西欧諸国が全く想定していない事態だった。
 またEU拡大は、欧州内部に新たな亀裂を生んだ。たとえばEUが保障した移動の自由を利用して、ポーランドなど東欧諸国の多数の市民が英国に移住した。しかしこの変化は英国市民の間でEUに対する反感を強め、2016年の国民投票で離脱賛成派が勝つ原因の一つとなった。つまりBREXITの遠因の一つは、EUの東方拡大にあるのだ。
 政治思想と価値観の違いをめぐる西欧・東欧間の分断は今なお続いている。

東欧革命の先駆者ポーランド

 まずは、30年前、ソ連圏の東欧諸国で何が起こったのかを振り返る。東欧革命の先鞭をつけたのは、ポーランドだった。この国では80年代後半に入ってから政府の経済政策の失敗により深刻なインフレや食料不足が起き、一部の労働者がストライキを行うなど混乱が続いていた。
 この難局を打開するために、1989年2月から4月にかけて政府幹部と自主管理労働組合「連帯」、教会関係者はワルシャワで円卓会議を開催。結果、81年以来政府によって弾圧され、82年からは非合法化されていた連帯が、89年4月に合法化された。同年6月4日と18日には、第二次世界大戦後、東欧の社会主義圏で初めて部分的な自由選挙が実施され、連帯の政治組織「連帯市民委員会」が有権者から圧倒的な支持を得て勝利した。
 89年8月24日には、議会下院(セイム)が連帯の顧問だったジャーナリスト、タデウシュ・マゾヴィエツキを首相に選出。彼は9月13日に政権を樹立する。第二次世界大戦後、東欧の社会主義国で共産党に属さない人物が首相の座に就いたのは初めてのことである。
 マゾヴィエツキ政権はポーランド人民共和国という国名をポーランド共和国に改名、第3共和制を発布した。第3共和制とは、1569年から1795年まで続いたポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)と、1918年から39年まで続いたポーランド共和国(第2共和制)に続く名称である。帝政ロシアやソ連、ナチスドイツなど他民族支配の辛酸をなめ、しばしば地図から抹消されたポーランドは、89年12月の憲法改正によって黄金の冠を戴く白い鷲の国章を再び導入し、民主的な独立国として復活したのである。
 ポーランドの民主化では、連帯の役割を無視できない。この組合はグダンスクのレーニン造船所で、労働者たちが80年9月22日に創設した。彼らは食肉などの値段の引き上げに抗議して、ストライキを開始した。当時共産主義圏では労働者のストライキはおろか、自主的な組合の創設も禁止されていた。
 グダンスクのストライキは、ポーランド全土に拡大した。レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)が率いる連帯の組合員は約950万人に増加し、共産党(ポーランド統一労働者党)の党員の約30%が加盟するに至った。

1980年9月、グダンスクのレーニン造船所で、檀上に立ち演説するヴァウェンサ

 連帯の政治的な影響力の拡大を恐れたポーランド政府は、81年12月13日に戒厳令を発布して連帯幹部らを逮捕し、翌年10月にこの組合の活動を禁止した。だが組合員たちは民主化への希望を捨てずに、地下に潜って活動を続けた。共産主義政権の崩壊後、ヴァウェンサは政治活動に復帰し、90年から5年間にわたり同国の大統領を務めた。
 つまり89年のポーランド民主革命の基礎を築いたのは、9年前にグダンスクで労働者たちが連帯の創設という形で行った、共産主義支配に対する異議申し立てだった。ソ連の支配体制に最初の亀裂を生じさせたポーランド人たちの勇気は、欧州の歴史に永遠に刻まれるだろう。

鉄のカーテンに穴を開けたハンガリー

 ハンガリーでも80年代後半には経済状態が悪化。56年からその座に就き、2度にわたって首相を務めたこともある社会主義労働者党書記長ヤーノシュ・カーダールが88年5月に健康上の理由で辞任して以降、民主化の動きが加速した。
 特に重要なのは、ハンガリーが西側への出国禁止を撤廃したことだ。同国は89年5月にオーストリアとの国境を封鎖していた鉄条網などの撤去を開始した。同年6月27日には、ハンガリーのジュラ・ホルン外務大臣とオーストリアのアロイス・モック外相が肩を並べて両国間の国境で鉄条網を切断する模様を、西側の記者団に撮影させた。この映像はハンガリーの対外姿勢の緩和を象徴するものだった。

 当時東ドイツなど社会主義国の市民は、ハンガリーやチェコなど共産主義圏の国へは旅行できたが、西ドイツなど西側の国への旅行を原則として禁じられていた。社会主義国の国境警備兵たちは、西側への亡命を試みる者を銃撃する許可も与えられていた。ベルリンの壁など東西ドイツ間の国境を許可なく越えようとして射殺された市民の数は、200人~300人と推定されている。
 だが89年にハンガリーが国境を事実上開放したため、同国経由でオーストリアへ脱出する東ドイツ市民が急増した。同年8月19日には、オーストリア国境に近いハンガリーのショプロンで開かれた「汎欧州ピクニック」を名目に集まった約600人の東ドイツ市民が、国境を越えてオーストリアへ亡命した。このニュースは東ドイツ市民の間で瞬く間に広がり、同国政府を激怒させた。亡命者の増加は、東ドイツ国内での民主化要求を強め、同年11月9日のベルリンの壁崩壊につながっていく。ハンガリー政府の決断は、鉄のカーテンに最初のほころびを作ったという意味で極めて大きな意味を持っている。
 1989年10月23日には、議会制民主主義に基づくハンガリー共和国が樹立され、共産主義支配は終焉した。

チェコスロバキア、バルト三国にも飛び火

 89年11月からはチェコスロバキアの首都プラハやブラチスラバで市民の民主化要求デモが多発。劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルらが創設した市民フォーラムは、共産党政権の退陣を要求した。11月26日に始まった市民フォーラムと政府の交渉の結果、共産党を第一党とすることを定める条項が憲法から削除され、同国での共産主義支配は終わった。12月29日に同国議会はハヴェルを大統領に選出し、翌年3月29日には議会制民主主義に基づくチェコ・スロバキア連邦共和国が誕生した。(同国は93年1月1日に分裂して2つの独立国となった)
 またブルガリアでも89年11月から民主化を求める市民のデモが始まり、91年の選挙で共産主義政権を失脚させた。さらに第二次世界大戦後ソ連に強制的に編入されていたバルト三国エストニアリトアニアラトビア)でも89年8月23日に約200万人の市民が手をつないで全長600キロメートルの「人間の鎖」を形成し、独立と民主化を要求した。これらの国々でも市民のデモが多発して、共産党支配を規定する条項が憲法から削除された。リトアニアは90年3月11日、エストニアは91年8月20日、ラトビアは翌21日にソ連からの独立を宣言した。
 東欧革命ではほとんどの国で流血の事態が避けられたが、ルーマニアでは激しい武力衝突が起きた。同国でも80年代には食糧不足が深刻化し、市民の不満が高まった。1989年12月に西部の都市ティミショアラで、チャウシェスク大統領による独裁政権に対する抗議デモが始まったが、首都ブカレストから派遣された治安部隊が発砲して市民の間に多数の死傷者が出た。暴動は他の都市にも拡大し、ヘリコプターで首都から脱出したチャウシェスク夫妻は、逃亡中に革命勢力に逮捕されて即決裁判で死刑宣告を受けた。両手を後ろ手に縛られた夫妻は兵営の中庭で壁の前に立たされて自動小銃の一斉射撃を受け、処刑された。裁判と処刑の一部始終は、ビデオカメラで撮影された。ルーマニアでの治安部隊と革命勢力の間の戦闘による死者は、約1000人にのぼると推定されている。

東欧革命を可能にしたゴルバチョフ

著者情報

ジャーナリスト

熊谷徹

くまがい とおる

1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局在勤中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツのミュンヘン市に在住。統一後のドイツの変化、ヨーロッパの政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材・執筆を続けている。著書に『新生ドイツの挑戦』(1993年、丸善)、『びっくり先進国ドイツ』(2004年、新潮社)、『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(2007年、新潮社)、『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(2012年、日経BP社)、『日本とドイツ―ふたつの「戦後」』(2015年、集英社)、『偽りの帝国―緊急報告・フォルクスワーゲン排ガス不正の闇』(2016年、文藝春秋)、『イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国』(2018年、新潮社)、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』(2019年、青春出版社) など多数。『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』(2007年、高文研)で第13回平和・協同ジャーナリスト奨励賞受賞。ホームページはhttp://www.tkumagai.de/

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