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希望と絶望が共存する場所、アラル海に魅せられて(前編)

宮内悠介+地田徹朗 特別対談――「悲劇の湖」の本当の姿を見に、砂漠の国へ

宮内悠介(小説家)

地田徹朗(名古屋外国語大学世界共生学部准教授)

(構成・文/宮内千和子)

 中央アジアカザフスタンウズベキスタンにまたがる塩湖・アラル海は、かつて世界第4位の湖水面積を有していた。しかし、旧ソビエト連邦(ソ連)時代に行われたスターリン灌漑政策などが原因で、面積は50年間で10分の1に縮小。生態系へのダメージ、湖底の表出と砂漠化など、世界最悪の環境破壊をもたらした。漁民は仕事を失い、人々は塩害による呼吸器疾患や内臓疾患に苦しんだ。

 この「悲劇の湖」に、十数年前から魅かれ、憧れを抱き、自らの仕事に結実させた二人の人物がいる。地田徹朗氏は現地に密着してアラル海の現状を分析する研究者として、宮内悠介氏は、作家として現地を取材し、架空の「アラルスタン」という国を舞台に『あとは野となれ大和撫子』を書き上げた。過去に壮大な「物語」を抱えたアラル海に足を踏み入れ、残留する湖水に身体を浸し、二人が感じたものは──。なぜここまでアラル海に魅せられるのか、お二人に語り合っていただいた。

『あとは野となれ大和撫子』(2017年、KADOKAWA)

 

日本初?アラル海が舞台の冒険小説!

地田 お久しぶりです。宮内さんとは共通の後輩の知人がいて、その人からアラル海を舞台に宮内さんが小説を書かれるということは聞いていました。でも、中央アジアに架空の「アラルスタン」という国ができて、少女戦士たちがその国を守るために戦うって、いったいどんな小説なんだろうと、最初はもう皆目想像もつかなかったんです。さあ、どうしようって(笑)。

宮内 そうでしょう(笑)。その節は、アラル海の写真や資料をお送りいただいてありがとうございました。参考文献をあたる際、やはり量的にも質的にも地田先生の資料や日本語論文がよく目について、勉強させていただくとともに、かねてより信頼していたのでした。

地田 いやいや。最初はそれが率直な感想でしたが、小説になった『あとは野となれ大和撫子』を拝見して、私は本当に度肝を抜かれたんです。そして、感謝の気持ちでいっぱいになりました。というのは、これはまさにアラル海周辺地域だとか、いかにも旧ソ連らしい、という画や情景が浮かんでくるさまざまな仕掛けが小説の随所に出てくるんですね。

 砂漠を貫くまっすぐな道路、船の墓場で記念写真を撮る観光客、魚もいない、鳥や獣も寄り付かない大アラル海の静けさ、廃墟になった臙脂色の三角屋根の家々なんて私が見てきた風景そのものですし、クヴァスや、酢を大量にかけるサラダとか、煙草のバラ売りなんかも「そうそう!」って思います。また、それがうまい具合にちりばめられていて、どこを読んでも、ああ、この辺の地域だなというのが肌感覚で伝わってくる。現地の人々の暮らしや塩の砂漠の情景が非常にリアルに物語の中から立ち上がってきて、研究者としてアラル海に行っている身としてはすごいなという驚きの連続でした。まず私が聞きたいのは、宮内さんが、アラル海を舞台に物語を書きたいと思ったきっかけです。

地田徹朗さん(左)と宮内悠介さん(右)

宮内 国家をまたいだ海が、旧ソ連時代の大規模な灌漑政策で、ほぼ消滅しようとしている。そのアラル海をどうしようかというプランについては、地田先生がお詳しいんですが、簡単に言えば、今は南北をダムで遮りまして、北の小アラル海については、水位がダムの設計上これ以上は上がらないだろうってところまで復活してきている。(イミダス関連記事:地田徹朗「アラル海は本当に消滅したのか?」
 とはいえ、南側の大アラル海に関してはなかなか打つ手が難しい状態にはあるので、ある意味で希望と絶望が一カ所にあるようなイメージを私は抱いていまして……。それは何というか、物語そのものではありませんか。「海が戻ってくる」という一事実がものすごく象徴的なことであると感じたのです。そして、なかなか打つ手の少ない南側の海と、戻ってきた北側の海を自分の目で両方見てみたい、行ってみたいと思ったのが最初です。興味をそそられたのは、中央アジアよりもアラル海が先だったのでした。

地田 なるほど。2014年10月に、CNNが「世界で4番目に広かった湖アラル海、ほぼ消滅」と報じて、世界に衝撃が走ったのですが、実はその情報は正確ではありません。今、宮内さんがおっしゃったように、カザフスタン領に属する小アラル海に関しては、コクアラル堤防が建設されてから、水位は安定し、塩分濃度は低下しています。塩分濃度の低下によって、かつてアラル海に生息していた多くの魚も戻ってきて漁業も復興しつつあることは、まだあまり知られていません。その意味では、今言われた「希望と絶望が共存する」という表現はぴったりだと思います。

アラル海との出会い

地田 宮内さんがアラル海のことを知ったのはいつ頃ですか?

宮内 02年、私が23歳の折、南アジアを旅しているときに、パキスタンのラホールという町の路上で買ったロンリープラネットの『Central Asia』というガイドブックで知りました。ちょうど同時多発テロが起きた後で、アフガニスタンに行きたいと考えていたんですが、この本によれば「行くべき季節」の欄に「Don’t go」と書いてある(笑)。

地田 その時期ならそうでしょうね。

宮内 なにぶん当時、時間だけはありましたから、この本を隅から隅まで読んで(笑)。恥ずかしながら、そのとき初めてアラル海の現状のことを知ったのでした。そういえば小さい頃、地球儀が好きでして、よく見てたんですよ。地球儀を見れば、大きくカスピ海、アラル海があります。それは1980年代の頃、つまり、ソビエトがまだあった頃なので、アラル海がもとのままのサイズで描かれていました。ところが本を読んで、その当たり前のようにあった湖、もしかしたら自分もいつかそこに行けるかもしれないと思っていた場所がないという衝撃がまずありました。アラル海の箇所にはかなりページが割かれ、湖が消えていく過程で、塩害だけでなく、農薬の被害やら、当時開発されていた炭疽菌やらの被害やら、さまざまな歴史的経緯が書かれていました。

宮内さんが読み込んだという『Central Asia』の表紙(左)と、本文中の、アラル海の縮小を示した図(右)。

地田 小説にも重要な要素として登場しましたが、アラル海には、島の一つに当時のソ連が生物兵器の工場を建てて、そこで炭疽菌をはじめ、危険な細菌類を何十種類も研究し、兵器に使えるように実験していたんですよね。

宮内 ちなみにアラル海が干上がることはソビエトにとっては予想外のことではなく、彼らは意図的に灌漑のためにアラル海に流れ込む水を使い、その結果湖が干上がってもよいと考えた。しかし、ならばなぜそこに生物兵器工場をつくったのかという疑問はある。生物兵器が流出した湖が干上がれば、汚染物質が風で舞い上がり、広範囲に飛んでいくということまでわかっていたはずです。
 生物兵器のことを抜きにしても、アラル海の縮小によって気候までもが変わり、人々の生活も激変し、とくに南部では、ガンを含む疾病の発生率が上がってしまった。いったいアラルに何が起こったのか、逆にいまどうなっているか知りたいと、23歳のそのとき思ったのでした。

地田 それから十数年後に実際にアラル海に行かれるまで、本当に長いあいだ思いを寄せていただいたという印象があって、何かうれしいです(笑)。すごく連帯感を抱くのは、私が実際にアラル海研究を始めたのも、実は同じぐらいの時期なんです。
 きっかけは、2001年からのカザフスタンの留学時代なのですが、そのときにたまたま、アラル海の支援をずっと続けている京大名誉教授の石田紀郎(のりお)先生とお会いしてお話しする機会があって、そのことがずっと頭の中から離れなかったんです。その後に、石田先生が、アラル海研究は、自然科学者はたくさんいるが、人文社会科学系の人間が全然いないのでそういう研究が必要だということを書かれた論文を見て、「あ、これ、自分がやらなくちゃ」と思った。それがちょうど04年とか05年とかそういう時期です。私も実際初めてアラル海に行ったのは、13年ぐらいなので、思い立って研究を始めてから、実際に現場に行くまでみたいなスパンが、ほとんど宮内さんと一緒なんです。

宮内 こう言ってよいのか、似ていますね(笑)。思いのほか時期まで近かったなんて。

地田 アラル地域を見ている感覚も似ているというか。僭越ながらなんですが、すみません。

宮内 いや、なんとなく共時性のようなものを感じてうれしいです。

湖水に身を浸す

地田 宮内さんはどういうルートでアラル海に入ったんですか?

宮内 地田先生は相当苦労されて広範囲を回ったとお聞きしていますが、私の場合は、もう少し普通の人が行けるルートをたどりました。ウズベキスタンの西側にカラカルパクスタン共和国という自治領があるんですが、その首都のヌクスからジープをチャーターして1泊2日で行けるというコースがあって、このルートがメジャーなので私も使いました。本当はもう少し自由に移動したかったのですが、ウズベキスタンはわりと旧ソビエト的な匂いの残る国家でして、例えばどこに滞在するにも常に証明書が必要になってくる。だから、1泊2日とかになると、そのジープの運転手さんを頼らざるを得ないんですね。ちなみに、ヴォズロジデニヤ島という生物兵器工場のあった場所に行ってくださいと言って却下されました(笑)。

著者情報

小説家

宮内悠介

みやうち ゆうすけ

1979年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2010年、短編「盤上の夜」で、第1回創元SF短編賞選考委員特別賞(山田正紀賞)を受賞してデビュー。12年、『盤上の夜』(東京創元社、12年)で第33回日本SF大賞受賞。13年、第6回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。14年『ヨハネスブルクの天使たち』(早川書房、15年)で第34回日本SF大賞特別賞、17年には『彼女がエスパーだったころ』(講談社、16年)で第38回吉川英治文学新人賞、『カブールの園』(文藝春秋、17年)で第30回三島由紀夫賞を受賞。ほかに『エクソダス症候群』(東京創元社、15年)、『アメリカ最後の実験』(新潮社、16年)、『スペース金融道』(河出書房新社、16年)、『月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿』(光文社、16年)、『カブールの園』(文藝春秋、17年)、『あとは野となれ大和撫子』(KADOKAWA、17年)、『ディレイ・エフェクト』(文藝春秋、18年)、『超動く家にて』(東京創元社、18年)がある。

名古屋外国語大学世界共生学部准教授

地田徹朗

ちだ てつろう

1977年生まれ。2011年、東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。北海道大学スラブ研究センター・グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成」学術研究員を経て、14年より17年3月まで北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター助教(境界研究ユニット担当)。同年4月より現職。著書に、『現代中央アジア論』(共著、日本評論社、04年)、『中央ユーラシア環境史3 激動の近現代』(共著、臨川書店、12年)などがある。

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