EUは死んだのか?(1)
熊谷徹(ジャーナリスト)
第二次世界大戦を経て、ヨーロッパはよりよいシステムを求めて欧州連合(EU)という枠組みを生み出した。ナショナリズムの克服、人と物の移動の自由や経済的な連帯。これらの理念が、いま揺るがされている。EUとはそもそも何だったのか? なぜヨーロッパ各国で、反EU派が市民の支持を集めるのか? 世界に衝撃を与えた「BREXIT」(イギリスのEU離脱。BREXITはBritainと、離脱を意味するExitを組み合わせた造語)を機に、ドイツ在住26年のジャーナリスト、熊谷徹が解説する。
欧州の国際的な地位は低下
2016年6月23日に、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票でBREXIT派が勝利を収めたことは、1989年のベルリンの壁崩壊や99年のユーロ誕生と同じく、世界史に残る出来事である。
ただしBREXITは、これらの二つの出来事とは対照的に、第二次世界大戦後、着々と進んできた欧州統合の歩みを初めて後戻りさせる「事件」だ。欧州でドイツに次ぐ第2の経済大国の離脱によって、EUの国際社会での地位が低下することは避けられない。
今回の「離婚」は、EUの国内総生産(GDP)を18%、輸出額を12%減らすだけでなく、経済成長率も引き下げる。イギリス政府は、アメリカ政府と緊密な関係を持っていた。つまりイギリスのEU離脱は、アメリカとの対話のための重要な外交チャンネルの一つがなくなるという意味で、地政学的にも大きな損失だ。
イギリスにとっても痛打
イギリスにとっての傷も深い。イギリスは輸出入のほぼ半分をEUとの貿易に依存している。多くの外国企業がBREXIT後にはイギリスでの投資を減らす方針を明らかにしている。EUがイギリスの農民や漁民に払っている補助金も停止される。
このためイギリスでは少なくとも一時的に貿易量や雇用、税収が減るものと予想されている。特に、イギリスがEUの単一市場に参加することができなくなり、同国からEU加盟国への輸出商品に関税がかけられることになった場合、同国が経済的な損失を受けることは、ほぼ確実だ。
欧州最大の金融センター・シティを擁するイギリスは、国内総生産の約8%を金融サービスによって生み出している。だが外国の金融機関は、BREXITが実際に起きた場合、業務の一部をEU圏内に移管する方針を明らかにしており、シティでの雇用に悪影響が出ることは避けられない。
たとえばスイスのUBS銀行は、ロンドンに約5000人の従業員を雇用しているが、セルジオ・エルモッティスCEOは、2016年9月に行ったインタビューの中で「その内、20~30%に悪影響が出るだろう」という悲観的な見通しを明らかにしている。
説明責任と国家主権を重視
こうした経済的な不利益にもかかわらず、投票者の51.9%がBREXITを望んだ最大の理由は、多くの有権者が「自国の利益に関わる重要な事柄を、EUによって決められるのはもう御免だ」と堪忍袋の緒を切らせたことにある。イギリス人は、欧州で最も政治家の説明責任(accountability)と国家の主権性(sovereignity)を重視する国民である。多くの有権者は、現在のEUではこの二つが十分に担保されず、「自国の政策の一部が外国人によって決められている」と感じていた。
たとえば、EUの政府にあたる欧州委員会の委員(コミッショナー)の問題はその象徴だ。東西冷戦の終結後、EUの権限は増大した。たとえば、現在EU加盟国の経済に関する法律の約40%は、EUの指針を国内法として施行したものだ。その範囲は、カルテル防止法、消費者保護、環境基準から、白熱電球や電気掃除機のワット数まで多岐に及ぶ。つまり欧州委員会のコミッショナーは、欧州政府の国務大臣に相当し、強大な権力を持っている。
それにもかかわらず、EU加盟国の市民たちはコミッショナーを投票によって選んだり、落選させたりすることができない。彼らが選ぶことができるのは、欧州議会の議員たちだけだ。このことについては、イギリスの有権者だけではなく、多くの国の市民が不満を抱いている。
移民問題が焦点
特に国民投票の最大の争点となったのが移民問題だ。EUの憲法に相当する「欧州連合条約(TEU)」及び「EUの機能に関する条約(TFEU)」は、加盟国に対して他のEU加盟国からの移民の自由と、職業選択の自由を保障することを義務付けている。当時欧州委員会は、EUを究極的に一つの「連邦」のような組織にすることをめざしていた。そのためには、域内での人と物の移動の自由、他の加盟国での就職の自由は、域内貿易における関税の廃止や、共通通貨の導入と並んで、最も重要な条件の一つである。
04年5月にポーランド、チェコ、ハンガリーなど東欧の8カ国がEUに加盟した。当時イギリスの首相だったトニー・ブレアは、EU統合に積極的な政治家だった。当時イギリスで労働力不足が生じていたこともあり、ブレアは、東欧からの労働移民を積極的に受け入れた。このため同年の移民の純増数は、26万8000人に急増している。当時EUの新加盟国からの労働移民を無制限に受け入れたのは、イギリス、アイルランド、スウェーデンの3カ国だけだった。
イギリス統計局によると、1990年にイギリスに移住した外国人と退去した外国人の差、つまり移民の純増数は3万6000人だった。だがその数は、2015年には33万3000人に達している。ボリス・ジョンソン(前ロンドン市長)やナイジェル・ファラージ(イギリス独立党党首)が率いる離脱派は、「移民によって単純労働をイギリス民から奪うだけではなく、社会保障制度にも重荷になる」と主張した。
16年6月にイギリスで行われた世論調査によると、最も強くBREXITを望んだのは、中高年層だった。65歳以上の回答者の内、65%がBREXITに賛成。これに対して18~24歳の回答者の内73%がEUへの残留を求めている。しかし国民投票に参加した65歳以上の有権者の投票率は約80%と極めて高かったのに対し、18~24歳の若年層の投票率は、わずか38%。この投票率の違いが、離脱派を勝たせたのだ。ロンドンとスコットランド、北アイルランド以外の全ての地域で、離脱派が勝った。
グローバル化に対する市民の反感
BREXITについての国民投票は、グローバル化についての投票でもあった。EU加盟国の市民、特に工場労働者や失業者の間では、「経済のグローバル化は、工場を自国から国外へ移し、我々の雇用を奪う」という不安感が強い。彼らにとってEUはグローバル化の象徴だ。自国民の意向を無視して、各国に移民の受け入れや就職の自由を強制するEUは、グローバル化の「負け組」にとっては、自分の生活を脅かす存在なのだ。
実際、イギリスでの世論調査によると、失業者や労働者の間では64%がBREXITに賛成している。これは高所得層の離脱賛成派の比率(43%)を大きく上回っている。つまり移民の増加によって、不利益をこうむると強く感じている人々が、EU離脱を切望したのだ。
イギリスに5年間勤務して現地の情勢をつぶさに観察してきたあるドイツ人外交官は、「国民投票後に退陣したキャメロン政権は、BREXITが起きた際の経済的な悪影響について、詳細かつ頻繁に国民に伝えてきた。おそらく、あれ以上の努力はできなかっただろう。それでも、投票した有権者の過半数が離脱を望んだ。私は、多くのイギリス人がかなり以前から態度を決めていたと思っている。今回の決定は、経済的な不利益と離脱の利益を厳密に比べた結果、行われたものではなく、感情による決断だ」と分析している。
スイスやノルウェーのような地位をめざす
TEU及びTFEUによると、加盟国が離脱の意思を正式にEUに通告してから2年経つと、そのEU加盟権は自動的に消滅する。16年9月の時点では、国民投票後に組閣されたイギリスのメイ新政権は離脱の意思を正式に通告していない。同国はこの通告を行ってから、離脱後のEUとの関係について交渉を行うことになる。
イギリスが目指しているのは、スイスやノルウェーのような地位である。これらの国々はEUには加盟していないが、EUの単一市場へのアクセスを許されており、EU圏に製品を輸出しても、いくつかの例外を除き関税をかけられない。ただしイギリスとEUとの交渉が難航することは、ほぼ確実だ。その理由は、スイスやノルウェーは、移民の自由やEU圏からの外国人の就職の自由など、EUが要求した条件を受け入れていることだ。こうした条件を受け入れない国は、EU単一市場へのアクセスを認められない。さらに両国はEUに属しておらず、首脳会議などには参加できないにもかかわらず、「EU会費」というべき拠出金を払っている。
メイ政権が、単一市場に引き続きアクセスするために、EUが要求する移民の自由や外国人の就職の自由などをあっさり受け入れるとは到底思えない。これらの条件は、BREXITに関する国民投票で離脱派が変更を求めていた最も重要な要素だからだ。
ドイツのメルケル首相は、「EU離脱を求める国が、EUファミリーから抜け出た後も、良い所だけを残そうとするのは、許されない」と釘を刺している。
EUは死んだのか?(2)へ続く。
著者情報
ジャーナリスト
熊谷徹
くまがい とおる
1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局在勤中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツのミュンヘン市に在住。統一後のドイツの変化、ヨーロッパの政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材・執筆を続けている。著書に『新生ドイツの挑戦』(1993年、丸善)、『びっくり先進国ドイツ』(2004年、新潮社)、『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(2007年、新潮社)、『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(2012年、日経BP社)、『日本とドイツ―ふたつの「戦後」』(2015年、集英社)、『偽りの帝国―緊急報告・フォルクスワーゲン排ガス不正の闇』(2016年、文藝春秋)、『イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国』(2018年、新潮社)、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』(2019年、青春出版社) など多数。『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』(2007年、高文研)で第13回平和・協同ジャーナリスト奨励賞受賞。ホームページはhttp://www.tkumagai.de/