福島第一原発事故に対する「グローバー勧告」を読む
伊藤和子(弁護士/国際人権NGO「ヒューマンライツ・ナウ」事務局長)
福島第一原発事故により、広島型原爆の168倍以上といわれる多量の放射性物質(セシウム137)が周辺地域に放出された。今も周辺地域に住む人々の健康影響に対し、社会は、政府は、どんな対応をすべきなのか? このことに対する答えは十分に出ているとはいえない。実は、この問題に対し、2012年、国連による調査がなされ、日本政府に対して勧告が出された。しかし政府はこれに反論・拒絶、マスコミも勧告を大きく取り上げることはなかった。多岐にわたる調査に裏付けられた勧告であるのに、日本国民には知られていない。そこで改めてその内容について述べてみたい。
グローバー勧告とは
12年11月、国連人権理事会が「健康に対する権利」に関する特別報告者として選任した、インド最高裁判所弁護士アナンド・グローバー氏を中心とする調査団は、福島原発事故後の人権状況に関する実態調査を実施した。調査団は、各関連省庁、福島県庁、福島県立医大、東京電力等からの事情聴取を行い、福島県福島市、郡山市、伊達市、南相馬市、宮城県仙台市など広範囲の地域を訪れ、住民へのインタビューや放射線量測定等の調査を行った。
翌13年5月、グローバー氏は、国連人権理事会に、福島原発事故後の人権状況に関する事実調査報告書(国連文書番号A/HRC/23/41/Add.3)を提出、日本政府に対しては、今後の改善に向けた重要かつ明確な勧告を行った。これがグローバー勧告と呼ばれるものである。
この勧告は当初ジュネーブで発表されたことから日本ではあまり話題にならなかった。しかし、14年3月にグローバー氏が再来日し、東京、福島、京都で講演会を開催、勧告の内容を詳しく説明したことで、各会場に集まった数多くの人々に知られることとなった。

勧告のポイント
グローバー勧告の中でも重要な点は、妊婦や子どもなど、最も放射線の影響を受けやすい弱者の立場に立ち、人々を健康被害から保護することを最優先とし、全ての有効な措置をとることを求めたことにある。
日本政府は、「年間1mSv(ミリシーベルト)」というそれまでの公衆の被ばく限度に関する告知を大幅に緩和し、「年間20mSv」を避難基準として設定した。この基準を下回る地域に住んでいる人々には避難の支援はほとんどなく、特別な健康診断も子どもの甲状腺検査以外は行われていない。さらに政府は、「100mSv以下の低線量被ばくは安全」との見解に立って低線量被ばくの影響を過小評価し、全ての政策をこうした見解に基づき、住民の意見を十分に反映しないまま決定・実行してきた。
これに対しグローバー氏は「低線量の放射線被ばくの影響が現時点でわからないとしても、これを否定することができない以上、健康リスクを防止する最大限の措置をとるべきである」とし、その観点から、年間20mSvではなく、あくまで1mSvを基準とする政策への抜本的な転換を日本政府に求めたのだ。
グローバー勧告の内容
グローバー勧告の項目は、「原発事故の緊急対応システムの策定と実施」「被災者の健康管理調査」「放射線量に関連する政策・情報提供」「除染」「透明性と説明責任の確保」「賠償や救済措置」「意志決定プロセスへの住民参加」に分かれ、それぞれ詳細な勧告がなされている。その内容の一部を紹介していこう。
(1)年間1mSvを基準とする住民の保護
まず、取り上げたいのが「放射線量に関連する政策・情報提供」に関する勧告だ。これについては次のように勧告している。(以下、「ヒューマンライツ・ナウ」の対訳による)
「避難地域、及び放射線の被曝量限度に関する国家の計画を、最新の科学的な証拠に基づき、リスク対経済効果の立場ではなく、人権を基礎において策定し、年間被ばく線量を1mSv以下に低減すること」(勧告78)
この勧告の根拠として、グローバー氏は、低線量放射線被ばくの健康影響に関する疫学研究を丁寧に説明し、100mSv以下でも健康影響の危険性があることを指摘した。そして、日本政府は放射線量の限度を設定するにあたり、科学的証拠に依拠して、最も影響を受けやすい妊婦や子どもについて考慮し、健康影響を最小にするように設定すべきだと勧告した。また、低線量であっても健康への悪影響の可能性がある限り、避難者は、年間放射線量が1mSv 以下で可能な限り低くなった時のみ、帰還することを推奨されるべきであるとした。そしてその間、帰還するか、避難を続けるかを自ら決定できるように、日本政府がすべての避難者に対する財政的援助や給付金を提供し続けるべきであると勧告している。
これに関連して、12年6月に成立・施行された「子ども・被災者支援法(東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律)」についても言及されている。同法では「支援対象地域」を、放射線量が一定の基準以上にある地域とし、法律には地域が明示されていない。グローバー氏は、年間1mSv以上の全地域に広げ、そこに居住する人、帰還した人、さらにそこから避難している人も含めた、全ての人に対し、移住、居住、雇用教育、その他の必要な支援を提供するよう求めた。
また、勧告78には、「放射線被ばくの危険性と、子どもは被ばくに対して特に脆弱であるという事実について、学校教材等で正確な情報を提供すること」ともある。
(2)健康診断・医療支援に対する政策転換
勧告77では、福島県が実施している「県民健康管理調査」についても言及している。
県民健康管理調査は、開始が事故の3カ月後と遅れたこと、基本調査問診票の回答率が14年3月31日現在で25.9%と低いことなど、問題も多い。
まず調査を福島県に限定せず、「年間 1mSv 以上の全ての地域に居住する人々に対し実施されるべきである」とし、長期的・包括的な健康検査と医療を求めている。また、「子どもの健康管理調査は、甲状腺検査に限定せず、血液・尿検査を含む全ての健康影響に関する調査に拡大すること」と勧告している。
さらに、原発労働者に対しての詳細な調査を踏まえて、グローバー氏は、「原子力産業に従事する作業員の多くが貧困者で、中にはホームレスの人々もいる」と指摘、「日本政府は健康診断・医療サービスを全ての作業員が常時利用できるよう、あらゆる対策を取るべき」と強く勧告した。
こうしたことからも、調査団の調査範囲がいかに広かったか、また内容に細やかな心配りがあったことがうかがえる。
(3)住民参加
勧告の最後では、「原発の稼働、避難区域の指定、放射線量の限度、健康管理調査、賠償額の決定を含む原子力エネルギー政策と原子力規制の枠組みに関する全ての側面の意思決定プロセスに、住民、特に社会的弱者が効果的に参加できることを確実にするよう、日本政府に要請する」(勧告82)としている。「子ども・被災者支援法」等の原発被災者への救済施策については、住民、特に子ども、女性、高齢者等の社会的弱者の声が反映されるような仕組みを確立するよう求めている。
このように勧告は、社会的弱者の視点に立ち、全ての住民を取りこぼさないよう、細かな点にまで調査を行い、丁寧に指摘している。また、これ以外にも重要で具体的な調査結果報告や勧告がたくさん出されている。私が所属する「ヒューマンライツ・ナウ」のホームページで全文を掲載しているので、ぜひお読みいただきたい。
グローバー勧告への反応と課題
こうしたグローバー勧告に対して、日本政府は、勧告を受けた直後に、膨大な反論書を提出し、あくまで低線量被ばくの健康影響はない、との立場から全面拒絶の姿勢を示した。政府は「広島・長崎の被爆者の疫学調査の結果、100mSv以下の低線量被ばくに健康影響はない」と主張する。しかし、放射能影響研究所が長年にわたって行ってきた、信頼性の高い広島・長崎の被爆者調査の結果、放射線の発がん影響には閾値(しきいち)がない、つまりこれ以下なら症状が出ないという値がないことが明らかになっており、国際放射線防護委員会(ICRP)も閾値がないという見解に立っている。日本政府の見解はこうした確立した見解に矛盾し、説得力のないものである。
政府が拒否的な反応をする一方、市民団体や避難者の方々、自治体などからは勧告を歓迎し、実施を求める声が多数寄せられた。さらに、日本医師会と日本学術会議は、「健康権」の観点からの政策の転換を求める共同見解を公表し、その内容はグローバー勧告とかなり近い内容となっている。
日本は、国連のイニシアチブでつくられた国際人権条約のなかで最も基本的かつ重要なものである「国連社会権規約」や、子どもの権利擁護に関する国際的な行動基準を定めた「子どもの権利条約」の締約国だ。これら条約では「健康に対する権利」が明確に保障されている。国際社会の声に謙虚に耳を傾け、人権の視点に立って、健康被害が万が一にも起きないよう、万全の措置をとる姿勢が、日本政府にとって大切なのではないか。政府がグローバー勧告に誠実に向き合って、どう政策を転換していくか、今後の対応に注目していきたい。
著者情報
弁護士/国際人権NGO「ヒューマンライツ・ナウ」事務局長
伊藤和子
いとう かずこ
1994年に弁護士登録(東京弁護士会所属)。以後、女性・子どもの人権、冤罪事件、環境・公害訴訟など、人権問題に取り組む。2004年ニューヨーク大学ロースクールに客員研究員として留学。05年ジュネーブの国連人権機関でインターン、06年に「ヒューマンライツ・ナウ」の立ち上げにかかわる。12年「ミモザの森法律事務所」を設立。著書に『人権は国境を越えて』(13年、岩波ジュニア新書)(2017.8)